碧 第10話 巨人の心
悲鳴が、谷じゅうに広がった。
傾いた山の斜面から、岩がばらばらと剥がれ落ちてくる。一つひとつが家ほどもある岩塊が、村の屋根めがけて降り注いだ。
「みんな、家の中から出てください!」
すずなは叫ぶと同時に、両手を空へ突き上げた。胸の奥に積み上げられた重みを、一気に外へ押し出す。
「Brick Wall!」
赤褐色の光が、村の屋根の上に大きく広がった。レンガを積んだような継ぎ目が空一面に走り、最初の岩塊がその表面に激突する。腹の底まで響く衝撃が、すずなの腕を伝って膝まで突き抜けた。岩は光の壁に弾かれ、谷の外へ転がり落ちていく。
「先輩、続けて来ます!」
「分かってます……!」
二つ目、三つ目の岩が、立て続けに壁を打った。そのたびにすずなの足が地面にめり込み、歯の奥がきしむ。壁そのものは少しも揺らがないのに、支えているすずなの体の方が、一撃ごとに削られていく。
「バザルト、お願いします! 村の外側に、岩を逸らす壁を!」
心春の声に、バザルトが谷の縁へ岩の斜面を次々と突き上げた。すずなの壁に弾かれた岩がその斜面を滑り、村から離れた森へと逸れていく。逃げ惑う村人たちを、心春は双剣を抜いたまま家の陰へ誘導していった。
頭上で、また藁の千切れる音がした。山を吊るす縄は、もう数本の藁だけで繋がっている。巨人は天秤棒を担いだまま、何事かと首を傾げていた。足元で起きていることには、少しも気づいていない。
「気づいてもらわないと……!」
すずなは壁を支えたまま、空を見上げた。叫んでも届かず、フィンも息に押し戻されてしまう。その時、心春が巨人の胸元を見上げて、はっと目を見開いた。
「すずなさん、息です!」
「息……?」
「さっき、吐く息でフィンが押し戻されました。でも、吐いた後は、必ず吸います。その時なら、風は上に向かって流れるはずです!」
すずなの目が、心春から村の入口へ移った。そこには、擦り減った撞木と大きな鐘が吊るされている。
「紬さん、鐘を!」
「はい!」
紬が駆け出し、撞木に飛びつこうとして、その重さに一瞬で諦めた。
「撞木より、こっちの方が速いです!」
紬は魔銃を構え、鐘の真ん中に銃口を向けた。
巨人が大きく息を吐いた。突風が谷を吹き抜け、すずなの壁が軋む。その風が途切れ、巨人の胸が大きく膨らみ始めた瞬間、心春が叫んだ。
「今です! フィン、上へ!」
紬が三度続けて引き金を引き、弾が鐘を打つたびに、澄んだ音が谷に響き渡った。フィンがその音を翼に巻き込み、吸い込まれていく風に乗って、雲の上へ一直線に駆け上がっていく。すずなも、残った声を振り絞った。
「ここに、います! 足元に村があります!」
鐘の音とすずなの声が風の流れごと巨人の口元へ吸い込まれていき、巨人の動きがぴたりと止まった。
天秤棒を担いだまま、巨人が首を巡らせる。雲が割れ、その顔が初めてはっきりと見えた。深い皺の刻まれた大きな目が、驚いたように見開かれている。その目が足元の谷へ下りていき、家々を、逃げ惑う人々を、赤褐色の壁を支える小さな影を、順に捉えていった。
「そこに、おったのか」
降ってきた声は、さっきまでの雷のような響きではなかった。巨人は自分の声の大きさに気づいたように、口元に手を当て、吐く息の一つひとつを細く、細く絞り出していた。それでも、その息はそよ風となって谷を撫でていく。
「わしは、ずっと。お前たちの上を、歩いておったのか」
生まれて初めてのささやき声に、すずなが息を呑んだ時、ぶつり、と最後の藁が音を立てた。山を吊るしていた縄がついに千切れ、傾いた山が、谷へ向かって滑り落ち始める。
「いかん」
巨人が手を伸ばそうとして、そこで動きを止めた。片方の山が落ちれば、天秤棒はもう片方へ大きく傾く。今手を離せば、もう一つの山まで落ちる。巨人の大きな手が、宙で迷うように震えていた。
すずなは壁を支えたまま、落ちてくる山を見上げた。光の壁で、岩は弾ける。けれど山そのものを受け止められるとは、とても思えなかった。
「小さき者よ」
ささやき声が、すずなのすぐそばで聞こえた。巨人が身を屈め、その大きな目が、すずなをまっすぐに見つめている。
「大きさが要る時は、わしの大きさを、貸そう」
巨人の指先から、淡い光がすずなの胸へと流れ込んだ。体の奥で、何かがふくらんでいく。重さと、温かさと、どこまでも伸びていけそうな軽さが、同時に満ちていくのが分かった。
『Giant's Whisper(大身の加護)を獲得しました』
「先輩!」
紬の声が、遠ざかっていった。いや、紬が遠ざかったのではない。すずなの目線が、ぐんぐんと上へ昇っていく。村の屋根が足元に沈み、谷の縁を越え、木々の梢を越えていく。気づけば巨人の胸の高さで、その大きな顔と向き合い、滑り落ちてくる山を目の前に見ていた。
すずなは両腕を広げ、その山肌を正面から受け止めた。土と岩の重みが、腕から肩、背中へとのしかかる。足が谷の底を踏みしめ、膝が沈む。それでも、山はすずなの腕の中で止まった。
「ぐ、う……!」
「よう、受け止めた」
巨人のささやきとともに、その大きな手がすずなの腕に添えられた。もう片方の山を天秤棒ごとそっと地面へ下ろし、空いた手で、すずなと一緒に山を支える。二人分の手のひらの上で山が傾きを止め、谷の脇の平らな土地へと、慎重に下ろされていった。地響きが一つ谷を揺らし、すずなが腕を離すと、そこには一つの山が、村を見守るようにどっしりと腰を据えていた。
「できた……」
巨人がぽつりと呟いた。
「あと一つ。これで、この国の形が、できあがった」
巨人は自分が下ろした山を、それから谷の村を、ゆっくりと見渡した。何百年も繰り返してきた「もう少し」が、そこで終わったのだと、すずなにも分かった。
すずなの体から、光がほどけていった。目線が下がり、木々の梢をくぐり、村の屋根を越えて、元の大きさで地面に降り立つ。膝から力が抜けてへたり込んだすずなのもとへ、紬と心春が駆け寄ってきた。
「先輩、大きかったです! すごく、大きかったです!」
「紬さん、それしか言ってないです」
「だって、大きかったんですもん!」
心春に突っ込まれながらも、紬はすずなの肩を掴んで離さなかった。
村の入口で、鐘が鳴り始めた。杖を放り出したあの老人が撞木の綱を握り、擦り減った場所を、皺だらけの手で何度も何度も打ち鳴らしている。
「届いた。わしの代で、届いたぞ。爺さま」
かすれた声で呟く老人の頬を、涙が伝っていた。
今度は、巨人がその音に顔を向けた。身を屈め、大きな耳を谷へ傾けて、目を細める。
「よう、聞こえる。こんなに、よう聞こえるものだったか」
ささやく巨人の目尻から、雫が一つ、こぼれ落ちた。谷の外れの地面に落ちたそれは、小さな泉になって、きらきらと光を返した。
巨人は三人の方へ顔を向けた。
「その力は、大きくも、小さくもなる。大きさが要る時に使い、要らん時は、返せばよい。ただ、大きくなった時こそ、足元を見ることを忘れるな」
「はい。忘れません」
すずなが頷くと、巨人は満ち足りたように目を閉じた。その輪郭が、淡い光の粒になってほどけ始める。
『だいだらぼっちの試練を達成しました』
頭の奥に響いた声とともに、巨人の姿は空へ溶けていった。後には、新しい山と、きらめく泉と、鳴りやまない鐘の音だけが残った。
尾根の上に、見覚えのある扉が立っていた。真ん中に一本の線が引かれ、右半分の大きな足跡が、淡く光っている。
「帰り道、ですね」
心春の言葉に頷いて、すずなは扉へ歩いた。取っ手に指をかける前に、ふと、世界を二つに分けていた線の方を振り返る。
線の向こうには、草の葉が大木のように見え、露の粒が鞠のようにきらめく、あの小さな世界が広がっていた。その中を、水たまりほどの川が流れている。
川の上には、もう、何も浮かんでいなかった。




