碧 第11話 失敗
白い光が引くと、そこは薄い青色の石の広間だった。ひんやりとした空気が頬に触れ、さっきまで全身に浴びていた山風の名残が、ゆっくりと肌から剥がれていく。振り返ると、くぐってきたばかりの扉が、壁に並ぶ他の扉と同じように立っていた。真ん中に引かれた一本の線の右半分だけが淡い金色を帯び、大きな足跡の彫刻が内側から照らされるように光っている。左半分は指先ほどの小さな彫刻をびっしりと刻んだまま、色もなく暗いままだった。
「半分だけ、光ってますね」
紬が扉を見上げ、首を傾げた。少し離れた場所では、三匹の子豚の扉が変わらず柔らかな金色に包まれている。その二枚を見比べて、心春が口を開いた。
「片方しか、終わってないからでしょうか」
「たぶん、そうだと思います」
頷きながら、すずなは扉の左半分を見つめた。小さな彫刻のひとつひとつに目を凝らせば、何かの形が見えてきそうな気がする。けれどそれを確かめる前に、紬が両腕を上げて大きく伸びをした。
「今日はもう、力を使い切っちゃいました。先輩も、あんなに大きくなったし」
「はい。一度帰って、休みましょう。こっちは、また明日」
「明日は小さい方ですね。今度は、わたしたちが巨人です」
紬が扉の左半分を指さし、悪戯っぽく笑った。
「踏まないように、気をつけて歩かないと」
「紬さん、さっき二度と乗りませんって言ってたのに、もう元気ですね」
「それとこれとは別です」
心春に突っ込まれて、紬が胸を張る。張り詰めていたものがようやくほどけ、すずなもつられて口元を緩めかけた、その時だった。
『一寸法師の試練は失敗しました』
頭の奥に響いた声は、いつもと同じ平らな調子だった。試練の始まりを告げた時と何ひとつ変わらない声が、変わらない調子のまま、聞いたことのない言葉を告げていく。
三人の動きが同時に止まり、すずなの喉から「え……」とかすれた声がこぼれた。紬は扉を指さしたまま固まり、心春は両手を胸の前で握りしめている。
「今の、わたしにも聞こえました」
「私もです。失敗、って……」
心春の声が震えた。すずなは何か言おうとして、言葉が見つからないまま扉に目を戻す。「失敗」という響きだけが頭の中で空回りし、意味がうまく形を結ばない。まだ挑んでもいないのに、どうして終わってしまうのか。明日来ると、たった今決めたばかりなのに。
扉の右半分を照らしていた金色の光が、ふっと揺らいだ。
蝋燭の火が風に煽られるように、光は一度細くなり、また戻り、それからもう戻らなかった。金色が端から少しずつ色を失い、褪せた黄へ、黄から薄い鈍色へと変わっていく。大きな足跡を照らしていた温もりが、指の隙間から砂がこぼれるように抜け落ちていった。
「待って……」
すずなは思わず一歩踏み出していた。けれど伸ばした手が届くより早く、色の褪せは線を越えて左半分へと広がり、右も左も区別なく扉全体をくすんだ灰色に沈めていく。大きな足跡も、小さな彫刻も、同じ灰色の中に埋もれていった。薄青い壁の前で、その一枚だけが、色をすっかり抜き取られたように浮いて見えた。
「だいだらぼっちの方まで……」
紬がようやく下ろした手を扉へ伸ばしかけ、触れる寸前で指を止めた。
すずなの手は止まらなかった。灰色の表面に、そっと手のひらを押し当てる。石壁よりも、冬の朝の井戸水よりも、もっと芯の方から凍えるような冷たさが、手のひらから腕へと這い上がってきた。三匹の子豚の扉に触れた時の、あの呼ばれるような感覚はどこにもなく、この向こうで誰かが待っているという気配さえ、もう残っていない。もう二度と、開くことはない。理由はなくても、三人ともそれが分かった。
すずなが手を離した直後、足元の床が低く唸った。
「な、何ですか……!」
心春が思わず後ずさる。振動が靴底から膝へと這い上がり、壁の光る文字が一斉に明滅を乱した。寝息のようだった光が、うなされた誰かの息のように短く途切れては灯る。その中で、赤ずきんと長靴を履いた猫の扉が、石の擦れ合う音とともに揃って床へ沈み始め、紬がすずなの腕を掴んだ時にはもう、継ぎ目ひとつ残さず呑まれていた。
音がぴたりと止み、乱れた文字の光だけが、扉の消えた床をちらちらと照らしている。三人が息を詰めて見つめる先で、その床が、ほんのわずかに膨らんだ。
最初に覗いたのは、扉の上端だった。滑らかな床を割ることもなく、水面から浮かび上がるように木の縁が姿を現し、続いてプレートが、彫り込まれた絵が、取っ手が、ゆっくりと立ち上がってくる。大きさも形も、さっきまでの扉とよく似ていた。けれど木目の色は前より深く、夜の森のように暗い。取っ手の金具は鈍く黒ずみ、長い間誰の手にも触れられずにきたような、冷えた光を返している。
二枚の扉が床に根を下ろすと、地響きは嘘のように収まり、壁の文字もまた寝息のような明滅に戻っていった。知っているはずの扉なのに、見知らぬ誰かがそこに立っているようで、すずなは喉の奥がひりつくのを覚えた。広間には、三人の荒い息遣いだけが残されている。
「同じ場所、ですよね……?」
紬がおそるおそる近づき、プレートを覗き込んだ。そこに刻まれていた文字は、さっきまでのものとは違っていた。
"Le Petit Chaperon Rouge"
「文字が、変わってます」
もう一枚の扉にも、見覚えのない綴りが並んでいる。
"Le Maître Chat ou le Chat Botté"
プレートの下には、前と同じように頭巾をかぶった女の子の横顔と、長靴を履いて立つ猫の姿が彫り込まれていた。ただ、女の子の絵だけが前とわずかに違い、その背中のすぐ後ろに、前にはなかった黒い影が寄り添うように彫り足されている。女の子は影に気づかないまま、まっすぐ前を向いていて、見ているだけで首筋がひやりとした。
「これ、フランス語だと思います」
すずなは二枚のプレートを見比べながら言った。自分の声が、思っていたよりずっと掠れている。
「さっきはドイツ語でしたけど、綴りの感じが違います。絵も同じですし、たぶん赤ずきんと長靴を履いた猫のままです」
「同じお話なのに、言葉だけ変わったんですか」
心春が首を傾げる。すずなは女の子の後ろに彫り足された影を、じっと見つめた。
「同じお話でも、国や時代によって語り方が違うことがあるんです。どこで終わるかとか、誰が助かるかとか。もしかしたら、別の語り方のほうに入れ替わったのかもしれません」
「中身も、変わってるってことですか」
紬の声が、不安そうに揺れた。
「分かりません。一度、日本に戻って調べてみましょう」
すずなはそう言って、胸の奥に意識を向けた。巨人から受け取った温かな重みは、そこにちゃんと残っている。だいだらぼっちから託された加護までは、失われていないらしい。紬もそれに気づいたのか、ほっと息をつく。
「先輩の加護は、残ってるんですね。それだけでも、よかったです」
すずなは頷こうとして、うまく頷けないまま灰色の扉を振り返った。あの向こうの小さな世界で、川の上を流れていたお椀の舟は、今どうしているのだろう。けれどあの時、確かに見ていたのだ。
「私……、見てたんです」
紬と心春が、すずなを見た。
「大きい方に行く前に、一度だけ振り返った時。小さい方の川に、お椀の舟が浮かんでました。針みたいな光も、見えた気がして」
言葉にした途端、水の流れにかすかに揺れていた舟と、ちかりと瞬いた小さな光が、鮮やかに蘇ってくる。あれはきっと、誰かが振り向いてくれるのを待っていたのだ。
すずなは灰色の扉から目を離せないまま、言葉を続けた。
「エルフィさんにも、両方越えなければいけないかもしれないって言われてたのに。あの時、見なかったことにして背を向けたのは、私です」
声の最後が、わずかに震えた。広間に重い沈黙が落ち、壁の文字だけが寝息のような明滅を繰り返している。その穏やかさが、かえって胸に刺さった。
やがて紬がぽつりと口を開いた。
「大きい方から行こうって言ったの、わたしです」
紬はすずなの袖を、ぎゅっとつまんだ。指先に込められた力が、袖越しにも伝わってくる。
「小さい方は踏んじゃいそうで怖いって、わたしが言ったんです。さっきだって、明日は小さい方だなんて、のんきなこと言って……。だから、先輩だけのせいじゃありません」
「私も、紬さんに賛成しました」
心春がそっと二人の隣に並ぶ。
「エルフィさんの言葉も、三人で聞いていました。だから、三人で決めたことです。誰か一人だけが背負うことじゃないと思います」
すずなは二人の顔を順に見つめた。紬の目は少し潤んでいて、心春の手はまだ胸の前で握りしめられたままでいる。慰めるために言っているのではなく、二人とも同じように悔しいのだと、すずなにはようやく分かった。
「ありがとうございます」
すずなは長く息を吐き、灰色の扉に向き直った。まだ冷たさの残る手のひらを、ぎゅっと握りしめる。
「次からは、確かめます。気になったことは置いていかないで、ちゃんと三人で話してから決めます」
「はい」
「はい。三人で。それから、エルフィさんにも、ちゃんと話しましょう」
二人の返事にすずなは小さく頷き、三人は広間の出口へと歩き出した。金色の扉が一枚、灰色の扉が一枚、新しく現れた二枚の扉、そしてまだ寝息のような明滅を続ける三枚の扉の前を通り過ぎ、すずなは最後にもう一度だけ、灰色の扉を振り返った。
左半分に刻まれた小さな彫刻は、すべて同じ灰色に沈んでいた。その中で、お椀の舟に乗った小さな人影だけが、手にした針をこちらへ掲げ、何かを言いかけたまま止まっているように見えた。
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