碧 第12話 異本
森の空き地に戻ると、空はまだ明るかった。木漏れ日の斑模様も、扉をくぐる前とほとんど変わっていない。広間で過ごした時間も、巨人の谷で過ごした時間も、まるでなかったかのような日差しだった。
すずなはしばらく、半透明の扉の前から動けずにいた。その袖を、紬がそっと引く。
「先輩。家に帰る前に、どこかで少し休みませんか」
「南のギルドが、すぐそこです。温かいもの、何か飲みましょう」
心春の言葉に、すずなはようやく頷いた。
南のギルドの食堂は、昼下がりの穏やかなざわめきに包まれていた。依頼を終えた冒険者たちが杯を傾け、厨房からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。三人が空いた席を探して見回していると、窓際の一角に、見覚えのある小さな背中があった。
「エルフィさん……?」
紬の声に、串焼きを頬張っていたエルフィが顔を上げた。皿の上には、すでに串が五本、きれいに並べて積まれている。
「どうして、ここに」
「串焼きが食べたくなった」
「わざわざ、南のギルドまでですか」
「ここのが一番うまい」
エルフィは涼しい顔で六本目に手を伸ばした。紬がじっとりとした目でその横顔を見つめ、それから心春と顔を見合わせる。森の空き地は、このギルドから歩いてすぐの場所にあった。
「座れ」
短く促され、三人はエルフィの向かいに腰を下ろした。エルフィは三人の顔を順に見て、串を皿に置く。
「何があった」
すずなは膝の上で両手を握り、順を追って話していった。巨人の谷で天秤棒の山が落ちてきたこと、巨人から大身の加護を託されたこと、広間に戻った直後にアナウンスが流れ、扉が灰色に沈んだこと。お椀の舟を見ていながら背を向けたことも、赤ずきんと長靴を履いた猫の扉が沈んでフランス語のプレートに変わったことも、何一つ省かずに話した。
エルフィは途中で一度も口を挟まず、話が灰色の扉に及んだところで、その目をわずかに細めただけだった。
「エルフィさんに、両方越えなければいけないかもしれないって、言われてたのに」
すずなが言葉を結ぶと、エルフィはしばらく黙っていた。食堂のざわめきが、遠く聞こえる。
「私の見立てが当たったところで、何の得もない」
エルフィはそう言って、空になった串を一本、指先でくるりと回した。
「閉じた扉は、開かない。なら、忘れなければいい。それだけだ」
叱るでも慰めるでもなく、当たり前のことを告げるような平坦な声だった。それでも、すずなの胸の奥でこわばっていた何かが、わずかにほどけていく。
「はい。忘れません」
すずなが頷くと、エルフィは手つかずの串が三本残った皿を、黙って三人の方へ押しやった。
「食え」
「え、でも、エルフィさんの」
「頼みすぎた」
六本も食べてから頼みすぎたと言われても、と紬が小さく呟いたが、エルフィは聞こえないふりをして窓の外へ目を向けた。三人はそれぞれ一本ずつ串を手に取る。まだ温かく、甘辛いたれの香りがふわりと鼻をくすぐった。
串を半分ほど食べたところで、エルフィが話を先へ進めた。
「それで、扉の言葉が変わったと言ったな。同じ物語の、言葉の違う扉か。こちらの世界でも、同じ言い伝えが土地によって違う形で語られることは珍しくない。北と南で、結末が逆になる話もある」
「別の語り方に、入れ替わったんでしょうか」
「おそらくな。だが、お前たちの国の物語なら、お前たちの国で調べる方が早いだろう」
「はい。一度日本に戻って、調べてみます」
「そうしろ」
三人が席を立とうとした時、エルフィがふと思い出したように付け加えた。
「それと。日本へ行くなら、手ぶらで戻ってくるな」
「催促ですか……」
「感想だ」
紬が噴き出しそうになるのを、心春が袖を引いて止めた。
ギルドを出ると、すずなは二人の手を取った。足元に黒い霧が渦を巻き、三人を包み込んでいく。霧が晴れた時、三人が立っていたのは、見慣れた紬のマンションの一室だった。
窓の外には、夕暮れの街並みが広がっていた。遠くで電車の走る音がして、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。巨人の谷とも、石の広間とも違う、当たり前の日本の夕方だった。
「わたし、ココア淹れますね。三人分」
紬が台所へ向かい、やかんを火にかける。心春がノートパソコンをテーブルに運び、すずなはその隣に腰を下ろした。湯気の立つマグカップが三つ並んだところで、紬が検索窓に文字を打ち込んでいく。
「赤ずきん、フランス……っと」
画面に並んだ記事の一つを開くと、紬は小さく声を上げた。
「あ、これです。赤ずきんには、ペロー版とグリム版があるって書いてあります。フランスがペローで、ドイツがグリム」
「じゃあ、最初の扉がグリム版で、今の扉がペロー版ってことですね」
心春が画面を覗き込み、記事の続きを目で追った。
「ペロー版の方が、百年以上も古いんですね。グリム兄弟は、その後で別の言い伝えを集めて、まとめ直したみたいです」
「長靴を履いた猫の方も、調べてみます」
紬が別の画面を開き、検索を続ける。しばらく記事を読み進めてから、首を傾げた。
「こっちは、グリム版は最初の本にしか載ってなかったみたいです。後から、これはドイツの言い伝えじゃなくてフランスから来たお話だって分かって、次の版からは外したって」
「つまり、どっちも一番古いフランスの語り方に、戻ったってことですね」
心春の言葉に、すずなははっと顔を上げた。
「戻った……」
失敗したことで、扉が一つ前の形へ巻き戻されたのか。それとも、より古く、より原型に近い物語が引きずり出されたのか。すずなには、まだ分からなかった。
「中身も、読んでみますね。赤ずきんから」
紬がペロー版のあらすじを開き、声に出して読み上げ始めた。森へお使いに行く女の子、途中で出会う狼、先回りしておばあさんの家へ向かう狼と、三人がよく知っている筋が、少しずつ違う言葉で並んでいく。読み進めるうちに、紬の声は少しずつ小さくなっていった。
「これ……最後、助からないです」
画面の文字を指でなぞる紬の手が、わずかに震えていた。
「狼に食べられて、そこで終わりです。猟師さんが、どこにも出てきません」
「グリム版だと、猟師さんがお腹から助け出してくれますよね」
心春が確かめるように言うと、すずなは画面を見つめたまま頷いた。
「はい。ペロー版には、その場面そのものが、ないみたいです」
すずなの頭に、フランス語のプレートの下に彫られていた絵がよみがえった。頭巾をかぶった女の子の、背中のすぐ後ろに彫り足されていた黒い影は、前の絵にはなかったものだった。
「最後に、教訓みたいな文章が付いてます。若い娘さんは、優しい顔をして近づいてくる狼に気をつけなさい、って」
紬が読み上げた一文に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
「誰も、助けに来ないかもしれないってことですか」
「少なくとも、物語の通りなら」
すずなはそう答えてから、続けて長靴を履いた猫のあらすじにも目を通した。猫が長靴を履き、知恵を働かせて、貧しい粉ひきの末息子を侯爵に仕立て上げていく。大筋は、三人が知っている話とほとんど変わらなかった。
「こっちは、ほとんど同じですね。外された理由も、中身じゃなくて、どこから来たお話かってことだったみたいですし」
「じゃあ、気をつけないといけないのは、赤ずきんの方ですね」
心春の言葉に、紬が膝を抱えた。
「助けが来ないなら、わたしたちが助けるしかないです」
「はい。そのために、今は知っておきましょう」
三人はそれから、ペロー版の赤ずきんを何度も読み返した。女の子が何を言われ、どこで道を選び、どんな言葉を交わしてしまうのか。一つひとつを確かめるうちに、窓の外はすっかり暗くなり、テーブルのココアもいつの間にか冷めていった。
心春が紬の肩にもたれて、うとうとと目を閉じ始めた頃、すずなはもう一度だけ画面を見つめた。狼が女の子を食べてしまった、という一文で、物語は終わっている。その下には教訓の数行が並び、それきり、何も書かれていなかった。




