碧 第6話 崩れやすいもの
藁の家の少女は、三人が近づいてくるまでずっと手を振っていた。
「おかえり。真ん中の子のお家、守れたの?」
「はい。少し、隙間風が増えちゃいましたけど」
すずなが答えると、少女はぱちぱちと手を叩いた。その後ろから、木の家の少女とレンガの家の少女が並んで歩いてくる。姉妹が三人そろうのを、すずなは初めて見た。藁の家の少女も同じことに気づいたのか、目を丸くして二人の妹を見比べる。
「二人とも、来たの? 珍しいね」
「見に来ただけよ」
木の家の少女が肩をすくめる。レンガの家の少女は何も言わず、藁の家の前で足を止めた。
「次は、この家を守ってもらう」
「さっきより多いって、言ってましたよね」
紬の問いに、少女は頷いた。
「それに、藁の家は脆い。木の家より、ずっと難しいと思う」
藁の家の少女は、妹の言葉を聞いても笑顔のままだった。戸口の脇に積んであった藁の束を一つ抱え上げ、慣れた手つきで胸に抱く。
「大丈夫だよ。飛ばされても、また作るから」
何十回も、何百回も繰り返してきた者の、少しも曇りのない声だった。すずなは少女の前に膝をつき、その目をまっすぐに見た。
「今回は、作り直さなくていいようにします」
少女はきょとんと首を傾げた。言われた意味が、すぐには飲み込めないような顔だった。
「来ます」
すずなが立ち上がった時には、空はもう色を失い始めていた。地平線に滲み出した黒い染みは、さっきとは比べものにならない。丘を一つまるごと塗り潰すほどの影の群れが、音もなくこちらへ押し寄せてくる。
「さっきの、倍じゃきかないですね……」
紬が魔銃を握り直した、その時だった。群れの先頭の一体が大きく口を開け、喉の奥で渦を巻いた黒い風を、唸りとともに吐き出した。
「何か吐きます!」
紬が叫んだ時には、風の奔流がまっすぐ藁の家へと走っていた。
「バザルト、お願いします!」
心春の声に、バザルトが拳を地面に叩きつける。家の手前で地面が盛り上がり、分厚い土壁が風を正面から受け止めた。砂埃が舞い上がり、黒い風が壁の縁で千切れて消えていく。息をつく間もなく、群れのあちこちで次々と口が開いた。
「一体だけじゃありません」
すずなは唇を引き結んだ。四方から放たれる風の塊が、土壁のあちこちを打ち据えていく。
「フィン、お願いします!」
心春の呼びかけに、透き通った翼が宙に広がった。けれどフィンが姿を現した瞬間、その翼がまとう風が藁の家の屋根をふわりと撫で、藁がひと房、ふた房と舞い上がる。
戸口の少女が、弾かれたように駆け出した。抱えた藁の束を胸に、舞い上がった屋根を見上げて壁に手をかけようとするその手つきは、何百回も繰り返してきた、直すためのものだった。
「出ないでください!」
すずなの声に、少女の足がぴたりと止まった。
「直さなくていいように、守りますから。中にいてください」
少女は屋根とすずなの顔を何度か見比べ、それから藁の束をぎゅっと抱え直して、戸口の内側へ一歩下がった。心春は青ざめた顔で、すぐさまフィンを振り返る。
「フィン、下がってください! ずっと後ろまで!」
「ごめん、心春。ここじゃ、何もできない」
フィンの声が、申し訳なさそうに遠ざかっていく。
「バーニルも、今回は出せません。藁の家だと、少しの熱でも」
心春は唇を噛み、残った一体に全てを託すように視線を送った。バザルトが家との間に距離を取り、岩の壁を幾重にも突き上げていく。吐き出される息が壁を打つたびに、岩の表面がざりざりと削られていった。
すずなの手は、また火を灯しかけて止まった。風も火も使えないうえに、時の流れを緩めて影の足を鈍らせることはできても、吐き出される風そのものは止められない。削れていく岩壁を見つめながら、すずなは闇の魔力を練り上げてバザルトの壁へ重ねようとしたが、黒い靄は岩の表面で弾かれ、まるで馴染まずに霧散していく。
「先輩、それ……」
「合わないみたいです」
紬に答えながら、すずなは岩壁にそっと手のひらを当てた。
ごつごつとした冷たさの奥に、何かが脈打っていた。それは木の家を守った時に足の裏から指先まで響いてきた、あの地鳴りと同じもので、重くて、ゆっくりとしていて、けれど確かに生きている流れだった。
「心春さん。少しだけ、バザルトの力に触れさせてもらってもいいですか」
「え?」
「今、覚えてみます」
心春が目を見開いた。
「戦いの、最中にですか」
「さっきから、ずっと響いてたんです。たぶん、届くと思います」
すずなは目を閉じ、押しつけるのではなく、流れの速さに合わせて隣を並んで歩くように、手のひらの下を流れる大地の力へ自分の魔力をそっと沿わせていった。背後では風の塊が岩を打つ音が続き、紬の銃声が間を置かずに響いている。
「先輩、こっちは任せてください!」
紬の声を背に受けながら、すずなは目を閉じたまま、流れの奥へさらに意識を沈めていった。やがて指先に、これまで知らなかった重みが灯る。
「できました」
目を開けると、手のひらに淡い土色の光が宿っていた。すずながその光を岩壁へ押し当てると、今度は弾かれることなく、すっと染み込んでいく。削れてひびの入っていた壁の表面が見る間に埋まり、厚みを増していった。
「本当に、覚えちゃった……」
心春が呆然と呟く。その隣で、バザルトがすずなの方へゆっくりと顔を向け、満足げに低く唸った。
「バザルトのおかげです。ずっと、近くで見せてもらってたので」
すずなが言うと、心春は一瞬言葉に詰まり、それから嬉しそうに笑った。銃声の合間に、紬の声が飛んでくる。
「先輩、すごいです! でも感動してる暇ないです、右から来ます!」
「はい!」
すずなは、紬が指さした右手の岩壁へ駆け出した。影たちの息が集中して打ち込まれているその壁へ走りながら、影の群れへ時の流れを緩め、岩壁に手をついて土の魔力を流し込むと、崩れかけた縁が盛り上がり、隙間が塞がっていった。
紬は狙いを変え、吐き出される前の、口を開けかけた影だけを一体ずつ正確に撃ち抜いていく。
「開ける前に、撃てば……!」
銃声のたびに、吐き出されかけた風が喉の奥で潰えて霧散した。心春はバザルトとともに、正面の岩壁を何度も突き上げ直している。額から汗が伝い、呼吸は荒い。それでも指示の声だけは、途切れなかった。
「防壁の左、薄くなってます!」
「わたしが撃ちます、先輩は塞いでください!」
「はい!」
三人の声が、重なっては離れ、また重なる。気づけば言葉を交わす前に、互いの動きが分かるようになっていた。紬が撃った隙間をすずなが塞ぎ、すずなが塞いだ壁の上をバザルトがさらに固める。
どれほど耐え続けたのか、すずなにはもう分からなかった。土の魔力を流し込むたびに腕が痺れ、膝が笑う。それでも手のひらを岩から離さずにいるうちに、岩を打つ音が少しずつ間遠になっていった。最後の一体が岩壁の前で口を開けかけ、紬の銃声とともに煙のようにほどけて消えると、それを追うように空にも色が戻っていく。
「終わった……」
紬がその場に、すとんと座り込んだ。心春もバザルトの肩にもたれるようにして、大きく息をつく。
岩壁から手を離して振り返ったすずなの目に、藁の家が映った。屋根の藁がフィンの風で少し乱れている以外はどこも崩れておらず、壁の継ぎ目も、まだらの藁も、さっき見た時のままだった。戸口から一歩外へ出た藁の家の少女が、自分の家を見上げている。
「飛ばされて、ない」
かすれた声だった。少女は家の壁にそっと手を伸ばし、新しい藁と古い藁のまだら模様を、一つずつ確かめるように撫でていく。
「飛ばされてないよ。ねえ、飛ばされてない」
振り返った少女の顔は、泣きそうにも、笑いそうにも見えた。その後ろで、木の家の少女が口元を押さえ、レンガの家の少女は腕を組んだまま、じっと姉の背中を見つめている。
「ありがとう。守ってくれて」
少女の言葉に、三人は息を整えながら頷いた。レンガの家の少女が、三人のもとへ歩み寄ってくる。
「二つとも、守り切った」
短い言葉だった。けれどその声からは、初めて会った時の硬さが、わずかに抜けていた。
「最後は、わたしの家」
少女はそれだけ告げると、くるりと背を向け、一番奥のレンガの家へと歩き出した。木の家の少女が、姉の肩をぽんと叩いてからその後を追う。
藁の家の少女だけが、戸口に立ったまま動かなかった。その腕の中には、戦いの間ずっと抱えていた藁の束が、一本も使われないまま残っている。少女はそれを不思議そうに見下ろし、やがて、そっと胸に抱き直した。




