碧 第3話 物語の原初
藁の匂いが、ふいに濃くなった。
真鍮に触れた指先から白い光に引き込まれ、すずなの体がふわりと浮く。上も下も分からなくなるほんの数瞬のあいだ、すずなは二人の気配を探した。
「先輩、いますか」
「います。心春さんは」
「ここです」
すぐそばで返ってくる二人の声に、すずなはほっと息をついた。やがて浮遊感がほどけ、足の裏に柔らかな土の感触が戻ってくる。
目を開けると、見たことのない景色が広がっていた。空は淡い虹色に染まり、ゆっくりと色を移ろわせている。足元では背の低い草が揺れているけれど、どれも見覚えのない形をしていた。遠くには建物の断片がいくつも宙に浮かんでいて、尖塔の先だけ、窓枠と壁の一部だけ、石段の途中だけと、積み木を崩したまま放り出したように、どれも途中で途切れている。鳥の声も虫の音もせず、草を揺らす風だけが耳元を通り過ぎていった。
「いくつもの世界が、混ざり合ってるみたいですね」
紬が空を見上げたまま呟く。
「物語の欠片が、あちこちに吹き溜まってる。そんな感じがします」
心春の言葉に、すずなはもう一度辺りを見回した。浮かんだ断片の中には、どこかで見たような形もある。けれどそれが何だったのか思い出す前に、断片はゆっくりと向きを変えて見えなくなった。
「嫌な気配は、ないみたいです」
すずなが言うと、二人も頷いた。三人は足元を確かめながら歩き出し、しばらく進んだところで、紬がすずなの袖を引いた。
「先輩、あれ」
紬の指さす先、なだらかな丘の向こうに、小さな家が三軒並んでいた。藁の家に木の家、そしてレンガの家と、手前から順に少しずつ頑丈になっていく並びは、幼い頃にページをめくったあの絵本そのものだった。
その時、頭の奥に声が響いた。
『"The Three Little Pigs" の試練が開始されました』
すずなは思わず二人を振り返った。また、自分だけだろうか。
けれど紬は目を丸くして、自分の耳に手を当てていた。
「今の、わたしにも聞こえました」
「私もです」
心春も驚いたように胸元を押さえている。紬はすずなの顔を見上げ、それから少しだけ眉を下げた。
「先輩が聞いてたのって、こういう声だったんですね」
「はい。同じ声です」
すずなが頷くと、袖をつまんでいた紬の指に、きゅっと力がこもった。心春も何も言わずに、すずなの隣へ半歩寄る。
すずなは自分の肩から力が抜けていくのを感じながらも、かすかな引っかかりを拭えずにいた。扉の前では、自分にしか聞こえなかった。ここでは、三人に聞こえる。その違いが何を意味するのか、すずなにはまだ分からない。
「行ってみましょう」
三人は丘を下り、三軒の家へと近づいていった。
近くで見ると、違いはいっそうはっきりしていた。手前の藁の家は、風が吹くたびに屋根の藁がかさかさと鳴り、壁全体がわずかにたわむ。隣の木の家は板を打ちつけただけの簡素な造りで、継ぎ目の隙間から向こうの景色が覗いていた。一番奥のレンガの家だけが、どっしりと地面に腰を据えている。藁の家の壁には、継ぎ足したような新しい藁と、色の褪せた古い藁が、まだらに混じっていた。
その家の前まで来た時、中でかさりと物音がした。
「誰か、いるんでしょうか」
紬が身構える。すずなは一歩前に出て、藁の戸に向かって声をかけた。
「すみません。少し、お話を聞かせてもらえませんか」
しばらくの間があって、戸が内側からそっと開いた。顔を覗かせたのは、小さな女の子だった。柔らかな栗色の髪に、あどけない丸い頬。淡い生成り色のワンピースの裾には、藁を編み込んだ飾りが揺れている。どこにでもいる、普通の子どもにしか見えない。
その輪郭が、ざらりと揺らいだ。髪の先が、服の裾が、砂粒のように細かくほどけて瞬く。紬が息を呑んだ時には、少女の姿はもう元に戻っていた。
「あなたたち、だあれ?」
少女が首を傾げる。その声にも、遠くのラジオのようなかすかなノイズが混じっていた。
「この場所のことを、少し調べに来ました。驚かせてしまったら、ごめんなさい」
すずなが膝を折って目線を合わせると、少女はぱちぱちと瞬きをしてから、ほっとしたように頷いた。
その後ろで、紬がこっそり心春に耳打ちする。
「子豚じゃ、ないんですね」
「紬さん、聞こえちゃいます」
心春に袖を引かれ、紬は慌てて口をつぐんだ。少女は気にした様子もなく、三人の顔を順に見上げていく。
「外から人が来るの、珍しいね」
「ずっと、ここに住んでるんですか」
心春が尋ねると、少女は考えるように視線を泳がせた。
「うん。ずっと、ここにいるよ。妹たちと一緒に」
そう答えた直後、少女の全身がざらついたノイズに包まれた。古い映像が乱れるように、輪郭が二重にぶれる。
「だ、大丈夫ですか」
紬が思わず手を伸ばしかける。少女は何でもないことのように、ぶれの収まった手をひらひらと振ってみせた。
「平気。時々、こうなるだけ」
あまりにも慣れた口ぶりだった。それがかえって、三人の心をざわつかせる。
すずなは少女の背後に目をやった。家の中は薄暗く、藁の匂いがこもっている。小さなテーブルと、椅子が一つ。テーブルの上には、縁の欠けた木の器がぽつんと置かれていた。
「妹さんたちは、隣のお家に?」
「うん。真ん中の子が木のお家で、いちばん下の子が、いちばん奥の硬いお家」
少女は隣の二軒を順に指さしてから、くるりと自分の家の壁を振り返った。継ぎ足された新しい藁と色の褪せた古い藁が織りなすまだら模様を、小さな手がそっと撫でる。
「わたしのお家はね、すぐ飛ばされちゃうの」
「飛ばされる……」
「うん。それで、また作るの。何回も」
少女は、明日の天気の話でもするように笑った。
「もう、何回目か分からないくらい」
ひと筋の風が吹き抜けて、藁の壁がかさかさと鳴り、家全体がわずかにたわむ。少女の輪郭が、その風に合わせるように、ざらりと揺れた。
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本編はこちら
『おとぎ話の試練を全部クリアしたら、異世界が帰る場所になりました』(全269話・完結済み)
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