碧 第2話 開かれた広間
頁をめくる音は、一度きりで止んだ。
すずなはノブを握ったまま、扉の向こうに耳を澄ませた。風も鳥の声も遠のいた空き地で、聞こえてくるのは自分の鼓動ばかりだった。
「先輩。今、何か聞こえたんですか」
紬が、すずなの顔と扉を交互に見比べる。心春も眉を寄せ、すずなの手元を見つめていた。
「声が、また。あの日と同じ声でした」
二人が息を呑む気配がした。すずなは扉に目を戻し、ノブを握る指に力を込める。
「少しだけ、中を見てきてもいいですか」
「少しだけ、じゃなくて。一緒に行きます」
紬がすずなの袖をつまみ、心春も黙って隣に並ぶ。すずなは頷き、ノブを回した。
扉は音もなく内側へ開き、溢れ出した白い光が三人を呑み込んでいく。指先からノブの冷たさが消え、森の匂いも、草を踏む感触も、光の中にほどけていった。
目を開けると、そこは石造りの広間だった。天井は見上げても頂が見えないほど高く、夜明け前の空のような、薄い青色の石壁が四方をぐるりと囲んでいる。足元にも同じ色の滑らかな石が、模様ひとつなくどこまでも続いていた。空気はひんやりとしていて、それでいて息苦しさはない。窓も灯りも見当たらず、辺りの様子だけがなぜかはっきりと見えた。
振り返ると、くぐってきたばかりの扉が背後に立っていた。半透明だった森の扉とは違い、ここでは確かな木の手触りを持って、石の床に根を下ろしている。
その先の壁に沿って、七枚の扉が並んでいた。木の扉に、鉄で縁取られた扉、子どもの背丈ほどしかない小さな扉と、大きさも形もばらばらで、同じものはひとつとしてない。そしてそのうち四枚に、うっすらと光る文字が浮かんでいた。
"CLOSED"
文字の光は、ゆっくりと明滅していた。眠っている誰かの寝息のように、強くなっては弱まり、また強くなる。
「これ、みんな扉ですか」
紬の呟きが、思いのほか大きく広間に響いた。紬は慌てて口元を押さえ、声を落とす。
「……みんな、扉ですか」
「言い直しても、扉だと思います」
心春がくすりと笑い、近くの扉へ手を伸ばした。押しても引いても、扉はびくともしない。指先に返ってくるのは、石壁と変わらない冷たさだけだった。
「開かないですね」
「無理に開けない方がいいと思います」
すずなは心春を制し、広間をゆっくりと見渡した。さっきの頁の音の出どころを探すように耳を澄ませても、三人の息遣いのほかには何も聞こえてこない。
やがてすずなは、光る文字の浮かんでいない残りの三枚に目を留めた。
「開いてるのは、あの三つだけみたいです」
すずなの指さす先を見て、紬が目を細めた。
「他は、まだ閉まったままってことですか」
「たぶん」
三枚のうち一番手前の扉には、小さなプレートが掲げられている。紬が確かめようと一歩踏み出したところで、すずなはその袖をそっと引いた。
「一度、戻りましょう。エルフィさんに話してからです」
「そうですね。何も分からないまま進むのは、ちょっと怖いです」
心春が頷く。紬はまだ名残惜しそうに三枚の扉を振り返っていたが、やがてすずなに倣って、背後の扉へ向き直った。
森の空き地に戻ると、紬が足元を見下ろして首を傾げた。
「影、動いてませんね」
言われて、すずなも自分の足元に目を落とす。木漏れ日が地面に落とす斑模様は、扉をくぐる前に見たものとほとんど同じ形をしていた。広間で過ごした時間だけが、まるごとどこかへ抜け落ちてしまったかのようで、半透明の扉は何事もなかった顔をして木漏れ日の中に立っている。
すずなの黒い霧で家に戻り、三人はその足で隣の戸を叩いた。
「早かったな」
戸を開けたエルフィの肩越しに、テーブルの上の皿が見えた。三人が出かけた時には半分以上残っていたパイが、跡形もなく消えている。
「全部、食べたんですか」
「残すと傷む」
紬の問いを涼しい顔で受け流し、エルフィは三人を中へ招き入れた。
石造りの広間に、壁に並んだ七枚の扉、そのうち四枚に浮かんでいた光る文字と、すずなは広間で見たものをひとつずつ順に話していった。エルフィは腕を組んだまま、途中で一度も口を挟まずに耳を傾けている。
「戻ってきた時、影の位置が変わってなかったんです。中には、けっこういたはずなんですけど」
すずなの言葉に、エルフィの眉がわずかに動いた。すずなはもう一つ付け加える。
「それと、扉に触れた時、また声が聞こえました」
紬が小さく首を横に振った。
「わたしと心春さんには、何も聞こえなかったんです。先輩が急に振り返ったので、びっくりして」
エルフィの組んだ腕が、わずかに緩んだ。
「お前にだけ、か」
それきり、エルフィはしばらく黙り込んだ。窓の外で、どこかの家の鶏が気の抜けた声で鳴く。
「あの日も、そうだったな」
「はい……」
「なら、お前が開けるための場所なんだろう」
エルフィはそれだけ言うと、組んでいた腕をほどいた。
「七枚のうち、開いているのが三枚。残りの四枚は閉じている。何かを越えるたびに、少しずつ開いていく仕組みと見るのが筋だ」
「全部が開いてるわけじゃない、ってことですね」
心春の言葉に、エルフィは頷いた。
「時が絡んでいるならレインの領分だが、見てもいないものを聞かせたところで答えは出ない。必要になったら呼べばいい」
「エルフィさんは、見に来ないんですか」
紬が尋ねると、エルフィは空になった皿に目を落とした。
「言ったはずだ。まずはお前たちの目で確かめろと」
「でも」
「毎回私に知らせに戻る必要もない。開いている扉から、進めてみるといい」
突き放すような言葉とは裏腹に、エルフィの声はいつもよりわずかに低かった。
「ただし、何かあればすぐに呼べ。それだけは変わらん」
三人が頷いて席を立つと、戸口まで見送りに出たエルフィが、思い出したように付け加えた。
「次は、もう少し大きく焼いてこい」
「催促ですか」
「感想だ」
紬の問いに真顔で返し、エルフィは戸を閉めた。閉まる直前、その口元がわずかに緩んだのを、すずなは見逃さなかった。
翌朝、三人は再び広間に立っていた。
昨日と同じ薄青い壁に、同じ七枚の扉が並び、光る文字は相変わらず寝息のような明滅を繰り返している。ただ、二度目だからか、昨日ほど足がすくむことはなかった。
三人は一番手前の、開いている扉の前に並んだ。表面には細かな傷がいくつも刻まれ、誰かが何度も何度も開け閉めしてきたような、使い込まれた木の扉だった。
「読みますね」
紬が扉に歩み寄り、プレートの文字を指でなぞった。
"The Three Little Pigs"
「三匹の、子豚」
心春が口の中で繰り返す。
「知ってる話で、ちょっとほっとしました」
「わたしもです。子どもの頃、絵本で何回も読みました」
紬が肩の力を抜くように笑う。すずなはプレートを見上げたまま、取っ手に手を伸ばした。
指先が真鍮に触れた瞬間、プレートの文字がかすかに光を帯びた。
扉の隙間から、藁の匂いがする乾いた風がひと筋吹き込んでくる。
本編はこちら
『おとぎ話の試練を全部クリアしたら、異世界が帰る場所になりました』(全269話・完結済み)
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