碧 第1話 残響
おとぎ話の試練は、全部クリアした。
少なくとも、すずなはそう思っていた。あの戦いの終わりに、頭の奥であの声を聞くまでは。
『EXTRA BOOKが解放されました。新しい物語が解放されます』
その意味を確かめないまま、オーレンとの決着から数か月が過ぎていた。
すずな達の暮らす家に、朝の光が柔らかく差し込んでいる。台所から味噌汁の匂いが漂い、テーブルには三人分の朝食が並んで、窓の外では小鳥のさえずりに混じり、畑仕事へ向かう住人たちの話し声が遠くから聞こえてくる。この街に根を下ろしてから、何度も繰り返してきたありふれた朝だ。
「先輩、今日は珍しく寝坊でしたね。しかも寝癖つきです」
「えっ」
すずなが慌てて頭に手をやると、心春がくすりと笑い、自分のこめかみを指さした。
「反対側です」
「……ありがとうございます」
「昨日の依頼、帰りが遅かったですもんね。先輩が寝坊するの、久しぶりに見ました」
紬は楽しそうに言いながら、味噌汁をすする。
「たまにはいいと思います。三人とも、最近ずっと働き詰めでしたし」
心春の言葉に頷きつつ、すずなは跳ねた髪を指で押さえつけた。押さえても押さえても、手を離すとすぐに元へ戻ってしまう。紬が肩を震わせて笑いをこらえているのが、視界の端に見えた。
特別なことは何もない、いつも通りの朝だけれど、こうして三人で食卓を囲む時間こそが、今のすずなには何より確かな日常の証になっている。
「そういえば」
紬がふと箸を止めた。
「エルフィさんにお裾分け持っていく約束、今日でしたよね」
「あ」
「先輩、忘れてましたね」
「少しだけ」
すずなが目を逸らすと、心春が笑いながら席を立った。
「昨日焼いたパイ、まだ残ってますから。ちょうどいいです」
身支度を整え、パイの包みを抱えて玄関の戸を開けると、内側に結ばれた鈴が、ちりんと小さく鳴った。澄んだ朝の空気が頬を撫で、どこかの家から薪の爆ぜる音が聞こえてくる。
すずなはふと南の空へ目を向けた。その方角のずっと先に、あの森がある。焼け焦げた地面、崩れた木々、最後に交わした言葉、そしてあの声。思い出そうとしなくても、その光景だけは今も鮮明に浮かぶ。
あの戦いで、すずなは加護のほとんどを失った。手元に残った加護は、転移の力ひとつだけ。それでいいと思っていたし、今もそう思っている。それなのにあの声だけが、読みかけの本に挟んだままの栞のように、ずっと胸の奥に残っていた。
「先輩?」
紬の声で、すずなは自分が足を止めていたことに気づいた。
「どうかしましたか」
「いえ。少し、あの日のことを思い出してただけです」
「あの日、って」
心春が問いかけると、すずなは小さく頷いた。
「オーレンさんとのこと。それと、最後に聞こえたあの声のことです」
紬と心春も足を止める。穏やかな朝の中に、そこだけ少し温度の違う沈黙が落ちた。
「EXTRA BOOKが解放された、っていう」
紬がその言葉をなぞる。
「はい。結局あれから、そのままにしてました」
「戦いの後始末に、街の復興に……落ち着いた頃には、すっかり後回しになってましたね」
心春が申し訳なさそうに眉を下げる。
「わたしも、正直ちょっと忘れかけてました」
「私もです」
すずなが苦笑すると、紬は少し考えるように首を傾げた。
「でも、気になってるんですよね。先輩」
「はい。少しだけ」
すずなはもう一度南の空へ目をやってから、二人に向き直った。
「一度、確かめに行ってみませんか」
紬と心春が顔を見合わせる。
「今から、ですか」
「まずはエルフィさんに話してからにしましょう。パイも渡さないといけませんし」
包みを持ち上げてみせると、紬が小さく吹き出す。けれどその笑いには、懐かしさとわずかな緊張が混じっていた。
隣の戸を叩くと、少し間を置いてエルフィが顔を出した。その視線は三人の顔より先に、すずなの抱えた包みへ向かう。
「来たか」
「おはようございます、エルフィさん。心春さんの手作りパイです」
「ほう。何の味だ」
「林檎です」
心春が答えるが早いか、エルフィは「入れ」とだけ告げて踵を返す。三人は笑いをこらえながら、その小さな背中に続いた。
切り分けたパイを前に、しばらくは他愛のない話が続く。エルフィが二切れ目に手を伸ばしたところで、すずなは膝の上で指を組み、口を開いた。
「エルフィさん。少し、相談したいことがあって」
「なんだ」
「あの日、オーレンさんとの戦いの最後に聞こえた声のことです。ずっと気になってて」
二切れ目を口に運びかけていたエルフィの手が、そこで止まった。
「あれか」
「覚えてましたか」
「お前が報告してきたことだ。忘れるわけがない。あれから何か変化は」
「ありません。声が聞こえただけで、それ以外は何も」
エルフィはパイを皿に戻し、しばらく黙り込む。甘いものを前にしてエルフィが手を止めるのは、滅多にないことだ。
「声だけで実体がないなら、今の私に言えることはない」
「やっぱり、そうですよね」
「だが」
エルフィの視線が、すずなをまっすぐに捉えた。
「お前はその声を『解放された』と聞いたんだろう。終わったものに、そんな言い方はしない」
すずなは息を詰めた。紬と心春も、言葉を失ったようにエルフィを見つめている。
「気になるなら、見てくるといい」
「エルフィさんは、一緒に来てくれないんですか」
紬が意外そうに尋ねる。
「声を聞いたのはお前だ。まずは自分たちの目で確かめるべきだろう。私が付いていったところで、何かが変わるとも思えん」
迷いのない声だった。あの戦いで常に最前線に立っていたエルフィが、今回は一歩引いたところから三人を見ている。
「わかりました。三人で、見てきます」
「何かあれば、すぐに呼べ。それだけは忘れるな」
頷く三人を見届けてから、エルフィはようやく二切れ目のパイを口に運んだ。
家に戻った三人は、裏庭に並んで立つ。すずなが意識を集中させると、足元に黒い霧が渦を巻き始めた。
霧が晴れると、三人はオーレンと最後に対峙した場所に立っていた。焼け焦げていた地面はすっかり緑に覆われ、崩れた木々の根元からは若い芽が伸びている。戦いの跡はどこにも見当たらず、柔らかな風が梢を揺らすたび、小鳥のさえずりが降ってくる。
その空き地の真ん中に、見覚えのない古びた木の扉がひとつだけ立っていた。壁も建物もなく、扉だけが地面に突き立っている。表面はどこか半透明で、向こう側の森がうっすらと透け、その景色はわずかに歪んで、水面越しに覗き込んでいるようでもあり、扉の周りだけ、なぜか風が止んでいた。
「これ……」
紬が息を呑む。心春もすずなの隣で、扉から目を離せずにいた。
「あの日は、こんなものありませんでしたよね」
「はい。どこにも」
心春の問いに答えながら、すずなは一歩ずつ扉へ近づいた。草を踏む音が、やけに大きく耳に響く。いつの間にか、小鳥の声も遠のいていた。
ノブに指をかけると、ひやりとした感触が指先に伝わり、その瞬間、頭の奥であの日と同じ声が響いた。
『新たな物語が解放されました』
すずなは弾かれたように振り返った。
「先輩?」
紬が首を傾げ、心春も不思議そうにこちらを見ている。二人の顔に驚きの色はどこにもなく、聞こえたのはまた自分だけなのだと、すずなは悟った。
そして扉の向こうで、誰かが頁をめくる音がした。
始まりました、新作です!
『まだ誰も知らない物語の終わらせ方 ~おとぎ話の試練を全部クリアした私たちの、その後~』
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
「あれ? 結局、続きじゃん」と思われた方。正解です。
ただ、今回は今までと少しだけ違います。おとぎ話の扉の先で待っているのは、記憶にあるものとはどこか異なる物語。試練の形も大きく変わっていますので、新しい物語として楽しんでいただけたら幸いです。
登場人物は、すずな・紬・心春をはじめ、本編から引き続きおなじみの顔ぶれです。こちらから読み始めると分かりにくいところもあるかと思いますので、よろしければ本編からどうぞ。
『おとぎ話の試練を全部クリアしたら、異世界が帰る場所になりました』(全269話・完結済み)
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