碧 第16話 闇の魔道具
紬は落とした匙を拾うことも忘れて、食堂の入口を振り返った。
「師匠が、来てるんですか。今日、ここに」
「はい〜。エルフィ様に、ご用があるって〜」
「エルフィ様も、いらしてます〜」
リナの言葉に、すずなが食堂の奥へ目を向けた。窓際の一番奥の席に、見慣れた銀髪の小さな後ろ姿がある。湯気の立つカップを前に、何か書類のようなものを眺めていた。
「本当です。エルフィさん、いますね」
「先輩、行きましょう。今すぐ、報告に行きましょう」
紬がすずなの袖を引いて立ち上がった。報告という言葉が、これほど切実に聞こえたことはない。心春がくすりと笑い、三人はミナとリナに会釈して奥の席へ向かった。
「エルフィさん、こんなところで珍しいですね」
すずなが声をかけると、エルフィは書類から顔を上げ、軽く手を上げた。
「カイルとの打ち合わせだ。南の守りについて、意見を聞きたいと言われてな。もう済んだ。座れ」
三人が向かいの席に腰を下ろすと、エルフィは書類を脇に寄せ、三人の顔を順に見た。
「それで、首尾はどうだった」
「はい。赤ずきんちゃんも、おばあさんも、無事に助けられました」
すずなが答えると、エルフィの目元がわずかに緩んだ。
「誰も欠けずに済んだか」
「狼の役の人も、本当はずっと二人を隠して守ってたんです。最後は、赤ずきんちゃんからガレットをもらってました」
心春が言い添えると、エルフィは少しだけ眉を上げた。
「狼が、娘から菓子をもらう物語か。お前たちの国の語り方とも、こちらの語り方とも違うな」
「それと、三人とも加護をもらいました」
紬がそう続け、すずなは看破の加護、紬は真眼の加護、心春は拘束の加護と、三人はそれぞれの力を短く伝えた。エルフィは腕を組み、三つの名を口の中で転がすように繰り返した。
「見抜く目に、真実を見る目、傷つけずに捕らえる力か。守る試練らしい組み合わせだ」
「次の試練でも、きっと役に立つと思います」
「油断はするな。だが」
エルフィはカップを持ち上げ、一口すすってから、ぽつりと付け加えた。
「悪くない」
短い一言だった。それでも、一寸法師の扉を灰色にしてしまった後だからこそ、すずなにはその言葉が胸に染みた。紬と心春も、顔を見合わせて笑みを交わす。
その時、食堂の入口の方から、聞き慣れた硬い足音が近づいてきた。
「エルフィ様。こちらにおいででしたか」
紬の背筋がぴんと伸びた。振り返ると、黒いフードを目深に被り、黒い外套の裾を翻したクレアが立っている。その後ろでは、いつの間にか移ってきたミナとリナが、同じ角度で首を傾げて控えていた。
「クレアか。何の用だ」
「エルフィ様へのご報告は後ほど。先に、こちらに用がございまして」
クレアの視線が、ゆっくりと紬に向けられた。フードの奥の目が、頭のてっぺんから足の先までをなぞっていく。紬は思わず、自分の普段着の裾を両手で握った。
「新たな試練に挑んでいると聞いたぞ、紬」
「は、はい、師匠」
「なのに、なぜ今日も普段着なのだ」
来た、と紬の顔に書いてあった。
「新しい戦いの場だというのに、なぜ闇の装いを纏っていない!」
「さっき、わたしたちも言いました〜」
「あり得ないです〜」
ミナとリナが、クレアの両脇から間髪入れずに加わる。紬はがっくりと肩を落とした。
「師匠、それ、今日だけで三回目です……」
「まあ、良い」
クレアが意外にもあっさりと引き下がり、紬は顔を上げた。クレアは外套の内側から、小さな黒い箱を取り出す。
「今日は、別の用事だ。レインと共に作った新しい魔道具を、お前に渡しに来た」
箱の蓋が開くと、中には黒く艶やかなブレスレットが一つ収められていた。手首に沿うように細く削られた本体に、小さな黒いボタンが二つ並んでいる。
「闇の使徒としての力を増幅する魔道具だ」
その説明に、紬の目が輝いた。
「わたしのために、作ってくださったんですか」
「ああ。装備してみろ」
紬は両手で大切そうに箱から取り出し、ブレスレットを手首に通した。ぴたりと吸いつくように馴染んだが、特に何かが起きる気配はない。
「あの、師匠。これは……」
「黒いボタンを押してみろ」
「あの……ボタンが二つあって、両方とも黒いんですが」
「右の黒いボタンだ」
クレアが短く告げる。紬がおそるおそる右のボタンに指を乗せ、押し込んだ瞬間、その足元から黒い靄が噴き上がった。
「わ、わ、わっ……!」
靄は渦を巻いて紬の全身を包み込み、一瞬だけ姿を覆い隠してから、すうっと晴れていく。靄が晴れた後には、黒い外套をまとい、片目を眼帯で覆い、腕に白い包帯を巻きつけ、腰から細い鎖を垂らした紬が立っていた。
「な、な、なんですか、これ……!」
「一瞬で闇の使徒の装束に変わる魔道具だ。いつでも、どこでも、真の姿になれる」
クレアが満足げに胸を張った。ミナとリナが、揃って両手を胸の前で組む。
「かっこいいです〜!」
「素敵です〜!」
紬は眼帯越しに自分の姿を見下ろし、腰の鎖をじゃらりと鳴らして、慌ててクレアを振り返った。
「も、戻る方法は」
「…………」
「師匠?」
「家で着替えろ」
「え」
「戻す仕組みは、まだ研究中だ」
紬の顔から、血の気が引いた。
「じゃ、じゃあ、もう一つのボタンを押せば……」
祈るような気持ちで、紬は左のボタンを押した。ブレスレットが小さく震え、食堂じゅうに響き渡る大音量で、紬自身の声が流れ出す。
『真の闇の使徒、見参!』
食堂のざわめきが、一瞬で止んだ。杯を傾けていた冒険者たちが、一斉にこちらを振り返る。紬は真っ赤になって、ブレスレットを両手で押さえつけた。
「な、な、なんで、わたしの声が……!」
「かなり前の台詞を録音してあったからな。再生できるようにした」
「なんで録音してあるんですか!」
紬の悲鳴の横で、ぶふっ、と何かが噴き出す音がした。見ると、エルフィがカップを置いたまま、テーブルの縁を両手で掴んで小刻みに震えている。うつむいた顔は見えないが、肩が大きく揺れていた。
「エ、エルフィさん……?」
「さ、流石だな……!」
エルフィは顔を上げないまま、絞り出すように言った。
「し、し、真の、闇の使徒よ……!」
それだけ言うと、エルフィはまたテーブルに額を押しつけて震え始めた。すずなと心春も、もう限界だった。二人は互いの顔を見られないまま、それぞれ違う方向へ顔を背けている。
「か、かっこいいと、思います。紬さん」
すずなが震える声でそう告げると、紬は眼帯の奥の片目に涙をにじませた。
「先輩まで……!」
「写真、撮ってもいいですか〜」
リナが外套の内側から、記録用の小さな魔石を取り出した。
「駄目です!」
紬が叫んだ時には、魔石はもう、ぱしゃりと小さな光を放っていた。
「ばっちりです〜」
「師匠に、差し上げます〜」
「受け取ろう」
クレアが当然のように頷き、紬はブレスレットごと両手で顔を覆った。
「なんなんですかー!」
その叫びに反応したのか、手首のブレスレットがまた小さく震えた。顔を覆った指が、左のボタンに触れていた。
『真の闇の使徒、見参!』
二度目の名乗りが、静まり返った食堂に響き渡る。食堂の入口では、打ち合わせの書類を抱えたカイルが、扉に手をかけたまま固まっていた。




