碧 第17話 長い帰り道
カイルは入口で固まったまま、しばらく動かなかった。やがて抱えていた書類をそっと持ち直し、紬に向かって、ギルド長らしく丁寧に頭を下げる。
「紬さん。その、お疲れさまです」
それだけ言うと、カイルはくるりと背を向け、来た道を足早に戻っていった。
「カイルさん、待ってください! これには事情が……!」
紬の声は、閉まりかけた扉に跳ね返された。食堂のあちこちから、こらえきれない笑い声が漏れ始める。紬は眼帯の上から顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「先輩。帰りましょう。今すぐ、Moon Returnで、家まで」
「はい。すぐに」
すずなが頷いて立ち上がりかけた時、エルフィがふと顔を上げた。さっきまで震えていた肩はぴたりと止まり、その目はいつになく真剣だった。
「待て。この辺り一帯には、まだ先日の広域殲滅魔法の名残が漂っている。転移の術が、乱れるかもしれん」
紬がしゃがんだまま顔を上げた。
「乱れる、って……」
「試してみるか」
エルフィは椅子から立ち上がり、片手を軽く掲げた。けれど足元に黒い霧が渦を巻く、いつもの気配はなく、しばらく待っても床には何も起こらない。
「やはり、駄目だな」
「私も、やってみます」
すずなは意識を集中させ、足元に霧を呼ぼうとした。けれど指先に集めた魔力は、何かに押し返されるように散っていき、霧はひと筋も立ちのぼらない。
「本当に、出ません……」
「先輩まで……!」
紬が救いを求めるように食堂の入口を振り返った。ちょうど、クレアがミナとリナを連れて出ていこうとしているところだった。
「師匠! 待ってください! 師匠の転移で、わたしを家まで……!」
クレアは足を止め、肩越しに紬を振り返った。フードの奥の目が、眼帯と包帯と鎖をまとった弟子の姿を、満足げに眺める。
「闇の使徒の姿を、存分に世に示すがいい」
「示したくないです!」
「では、また会おう」
クレアの足元に黒い霧が渦を巻き、ミナとリナごと三人を包み込んだ。
「紬さん、頑張ってください〜」
「応援してます〜」
霧が晴れた時には、転移の術が乱れるはずの食堂から、三人の姿はもうどこにもなくなっていた。
「今、師匠、普通に転移しましたよね」
「クレアは闇の扱いに長けている。名残の中でも、無理やり通したのだろう」
エルフィは涼しい顔でそう言い、自分の椅子に座り直した。紬はしばらくその横顔を見つめていたが、やがて力なく肩を落とす。
「じゃあ、どうやって帰ればいいんですか」
「乗合馬車だな」
「乗合馬車って、ここから街まで……」
「二日だ」
紬は黒い外套に眼帯、包帯、腰の鎖と、自分の姿を順に見下ろした。着替えの服は、ブレスレットの靄と一緒に消えてしまっている。
「この格好で、二日……」
「他に手はない」
「すみません、紬さん。私が使えれば……」
「先輩のせいじゃ、ないですけど……」
すずなの申し訳なさそうな声に、紬は小さく首を振った。心春がそっと紬の背中に手を添え、その横で、エルフィが席を立つ。
「私も行こう。一人で帰っても、つまらんからな」
その声がほんのわずかに弾んでいたことに、気づいた者はいなかった。
乗合馬車の乗り場には、行商人や旅の冒険者たちが列を作っていた。紬が列の最後尾に並んだ瞬間、前にいた人々が一斉に振り返り、そして一斉に一歩ずつ前へ詰めた。
「なんだ、あの格好は」
「闇の、使徒……?」
ひそひそ声が、列の先頭まで波のように伝わっていく。紬は外套のフードを目深に被り、自分の足元だけを見つめた。
馬車の座席は狭く、乗客同士の膝が触れそうなほどだった。紬は体をできるだけ小さく縮め、鎖が鳴らないように腰の辺りを両手で押さえる。向かいに座った商人風の男が、さっきから何度もこちらを窺っているのが分かった。
「あの……失礼ですが、闇の使徒の方、ですよね」
しばらくして、男が意を決したように身を乗り出した。
「い、いえ、これは、その、事情が……」
「やはり! 噂には聞いていましたが、本物にお会いできるとは」
男は感激したように両手を握りしめた。紬は否定の言葉を探したが、男の輝く目を前にして、どれも喉の奥で消えていく。
「その眼帯の下には、封じられた何かが宿っているのですか」
「や、宿ってないです」
「なるほど。軽々しく語れるものではない、と」
「そういう意味じゃないです……」
その時、車輪が石に乗り上げ、馬車ががたんと大きく跳ねた。紬の体が隣の心春にぶつかり、腰を押さえていた手が、手首のブレスレットに当たる。
『真の闇の使徒、見参!』
狭い車内に、紬の声が高らかに響き渡った。乗客全員の視線が、一斉に紬へ突き刺さる。
商人の男は、目を潤ませて胸に手を当てていた。
「名乗りまで……! ありがとうございます、一生の思い出にします」
男は手帳を取り出し、震える手で何かを書きつけ始めた。紬は両手で顔を覆い、そのまま動かなくなる。隣でエルフィが窓の外を眺めたまま肩を小刻みに震わせ、すずなは膝の上で両手を握りしめて、どうにか笑いを飲み込んでいた。
まる一日馬車に揺られ、日が暮れる頃、一行は街道沿いの小さな宿場町に着いた。
宿の扉を開けると、恰幅のいい主人が朗らかな笑顔で迎え、その笑顔が、紬の姿を捉えた瞬間に凍りついた。
「や、闇の使徒……! う、うちの宿に、何かご用でしょうか。呪いとか、そういう……」
「泊まりたいだけです!」
「ただの旅の一行です。四人、一晩お願いします」
紬の叫ぶような声に重ねて、心春が落ち着いた声で告げた。主人は心春の穏やかな笑顔と紬の眼帯を何度も見比べてから、ようやく震える手で鍵を差し出した。
部屋に入るなり、紬はベッドに倒れ込んだ。鎖がじゃらりと鳴り、紬はそれすら恨めしそうに睨みつける。
「先輩。本当に、まだ駄目ですか」
「はい。まだ、出ないみたいです」
すずなは手のひらに意識を集めてみたが、魔力はやはり何かに押し返されるように散っていった。その様子を、窓辺の椅子に座ったエルフィが、頬杖をついて黙って眺めている。
「明日には、着きますから」
心春が紬の頭をそっと撫でた。紬は枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で「はい」とだけ答えた。
翌朝、一行は再び馬車に揺られ、二日目の夕方、ようやく見慣れた街並みが前方に見えてきた。石畳の通りに沿って家々の窓に明かりが灯り始め、角のパン屋からは甘い匂いが漂ってくる。紬は馬車を降りるなり、両手を膝について深く息を吐いた。
「着いた……」
「お疲れさまでした、紬さん」
すずなが労うと、紬は眼帯の奥で、力なく笑った。
「本当に、長い道のりでした……」
その時、エルフィがふと思い出したように、自分の手のひらを見下ろした。
「ああ。そういえば、今なら使えそうだ」
「え」
紬がゆっくりとエルフィを振り返った。エルフィが軽く手を掲げると、その足元に、何事もなかったように黒い霧が渦を巻く。
「お前も、試してみろ」
促されたすずなが意識を集中させると、今度は魔力が指先に素直に集まり、足元に黒い霧がふわりと立ちのぼった。
「あ……出ました」
「今更ですか」
紬の声が低くなった。
「まあ、そういうこともある」
「エルフィさん。もしかして、最初から」
「気のせいだ」
エルフィは即答し、すっと視線を逸らした。すずなは慌てて両手を振る。
「わ、私は本当に出なかったんです! ずっと、何かに押し返されてるみたいで……」
言いながら、すずなは自分の言葉にはっとした。押し返されていたのは、まるで誰かが外から、すずなの魔力を抑えつけていたかのようだった。
すずなと紬の視線が、同時にエルフィへ向かう。エルフィは夕焼けの空を眺めたまま、口笛でも吹きそうな顔をしていた。
「絶対、嘘です! なんなんですかー!」
紬の叫びが、夕暮れの街に響き渡った。通りを行く人々が振り返り、眼帯の少女を見てぎょっと足を止める。
エルフィは黒い霧の中へ半歩踏み込み、それから肩越しに紬を振り返った。
「似合っていたぞ」
短くそう言い残して、エルフィの姿は霧の中に消えた。隣の家まで、歩いても百歩とかからない距離だった。
紬はしばらく、霧の消えた場所を見つめて立ち尽くしていた。それから、手首のブレスレットに目を落とす。家に帰ったら、真っ先にこれに布を巻こうと、紬は心に決めた。




