碧 第15話 二つの光
扉の取っ手に指をかけたところで、すずなは手を止めた。
「出る前に、確かめさせてください」
振り返ると、紬と心春がすずなの顔を見つめていた。少女はおばあさんの腕の中で手を振り、窓辺の青年は、ガレットを両手で包んだまま立っている。
「この物語で、まだやり残していることはないでしょうか。女の子とおばあさんを助けて、狼さんも、もう悪者じゃなくなりました。でも、私が気づいていないことが、どこかにあるかもしれません」
灰色に沈んだ扉と、針を掲げたまま止まった小さな人影が、すずなの胸の奥でまだ冷たく残っていた。あの時も、何も見落としていないつもりで背を向けたのだ。心春がその気持ちを汲み取るように、ゆっくりと部屋を見回す。
「女の子も、おばあさんも、ここにいます。狼の役の人も。物語に出てきた人は、みんな揃ってると思います」
「わたしも、もう一回確かめます」
紬は目を閉じ、戸板に手のひらを当てた。Echo Sightで家の内と外の気配を探り、やがて目を開ける。
「森の中にも、ほかに誰かが困ってる気配はありません。大丈夫です、先輩」
二人の言葉に、すずなはようやく肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。三人で確かめたので、もう大丈夫ですね」
「はい。三人で、です」
心春が微笑み、紬が頷く。すずなは取っ手を握り、扉を引いた。溢れ出した白い光が、三人を包み込んでいく。
光が引くと、そこは薄い青色の石の広間だった。振り返ると、今くぐってきた扉が柔らかな金色の光をまとい、黒ずんでいた取っ手の金具も、深い色の木目も、内側から照らされるように淡く輝いていた。
「本当に、光ってますね」
紬がその輝きを確かめるように、扉へ歩み寄った。心春は隣の三匹の子豚の扉と見比べ、指を折って数える。
「これで、二つ目です」
二枚の扉が、同じ淡い金色に包まれて並んでいる。その少し離れたところに、灰色の扉が一枚、光を返さずに立っていた。
すずなはその前で足を止めた。金色の二枚を見たあとでは、薄青い壁の前のその灰色が、いっそう冷たく目に映る。あの時振り返って、小さな川の方へ歩いていれば、ここにはもう一枚、金色の扉が並んでいたのかもしれない。持ち上げかけた手は、灰色の表面に届く前に下りていった。
気づくと、紬が隣に立っていた。何も言わず、ただ同じように灰色の扉を見上げている。反対側からは、心春がすずなの袖にそっと指先を添えていた。
「行きましょうか」
すずなは小さく息を吐き、赤ずきんの扉のプレートに目を移した。
「あ……」
プレートの下の絵が、変わっていた。頭巾をかぶった女の子の背中に寄り添っていた黒い影は、もう女の子の後ろにはいない。女の子の隣に並んで膝を折り、女の子の小さな手から、何かを受け取っている。
「狼さん、隣にいますね」
心春がそっと呟いた。紬も絵を覗き込み、それから照れくさそうに鼻をこする。
「背中じゃなくて、隣。いい絵になりましたね」
すずなは頷き、広間をゆっくりと見渡した。三匹の子豚の扉が光った時は、すぐに一寸法師とだいだらぼっちの扉が現れた。けれど今は、壁に並ぶ扉に何の変化もなく、光る文字を寝息のように明滅させた扉が、まだ三枚、眠っている。
「新しい扉、今回は出てこないんですね」
「一寸法師とだいだらぼっちの扉が、特別だったのかもしれません」
紬の言葉に答えながら、すずなは胸の内でだけ、もうひとつの答えを転がした。それとも、あの扉を灰色にしてしまったから、開くはずだった何かまで閉ざしてしまったのだろうか。確かめようのない問いを飲み込み、フランス語のプレートを掲げたもう一枚の扉に目を向ける。
長靴を履いた猫の扉は、黒ずんだ取っ手のまま、こちらの様子を窺うようにひっそりと立っていた。プレートの下の猫は、長靴を履いて胸を張ったまま、何も変わっていない。
「次は、あそこですね。でも、今日はここまでにしましょう」
すずなの言葉に、心春が大きく頷いた。
「赤ずきんちゃんの道を、行ったり来たりしましたもんね。フィンも、ずっと飛びっぱなしでしたし」
その時、紬のお腹が、くう、と小さく鳴った。広間の高い天井に、思いのほかよく響く。
「今の、聞かなかったことにしてください」
「朝から、何も食べてませんでしたね」
すずなが笑うと、心春も口元を押さえた。張り詰めていた胸の奥が、その音ひとつで少しだけほどけていく。紬は顔を赤くしながら、出口の扉へと歩き出した。
「南のギルドに寄りましょう。わたし、温かいスープが飲みたいです」
南のギルドの食堂は、夕方前のほどよい賑わいに包まれていた。依頼帰りの冒険者たちが杯を傾け、厨房からは煮込み料理の湯気が立ちのぼっている。
三人が空いた席を探して見回していると、奥のテーブルで、黒いフードを被った二人組が同時に顔を上げた。
「あ〜、すずなさん達です〜」
「お久しぶりです〜」
揃いの黒いフードを被り、目元を黒いマスクで覆ったミナとリナの周りだけ、食堂の明るさの中に夜が溶け残っているように見える。二人は同じ角度で手を振ると、ぴたりと揃った動きで三人の席の隣へ移ってきた。
「新しい試練に、挑んでるって聞きました〜」
ミナがそう言いながら、紬の頭のてっぺんから足の先までを、ゆっくりと眺めていく。リナも同じように視線を往復させてから、二人で首を傾げた。
「紬さん、なんで普段着なんですか〜」
「試練なのに、闇の使徒の正装じゃないんですか〜」
紬が、水の入ったコップに伸ばしかけた手を止めたまま固まった。
「試練は、動きやすい格好の方がいいので」
「正装も、動きやすいです〜」
「鎖とか、じゃらじゃらしてますよね」
「それが、いいんです〜」
二人の声が、きれいに揃った。紬は救いを求めるようにすずなを見たが、すずなはパンをちぎる手を止めて、困ったように笑うだけだった。
「先輩、助けてください」
「えっと、紬さんは、普段着も似合ってると思います」
「そういうことじゃないです」
「普段着も、闇っぽくしたらいいと思います〜」
「黒い糸で、刺繍とか〜」
「しません」
紬ががっくりと肩を落とす。心春が口元を押さえて肩を震わせ、ミナとリナはまた同じ角度で首を傾げた。
やがて運ばれてきたスープは、根菜がたっぷり入った温かいものだった。一口すするごとに、森の冷たい空気が体の中から抜けていく。湯気の向こうに、ガレットを両手で包んでいた青年の姿が、ふと浮かんで消えた。あの人は、もう食べただろうか。そう思った後で、お椀の舟の小さな人影がちらりと重なり、すずなは匙を持つ手を少しだけ止めてから、二口目を口に運ぶ。
「エルフィさんへの報告は、食べ終わってからにしましょうか」
心春の言葉に、すずなは頷いた。
「はい。一寸法師のことでは、心配をかけてしまったので。今度は、ちゃんといい報告ができます」
「今度は」と口にした時、灰色の扉が一瞬だけ頭をよぎった。それでも、言い直そうとは思わなかった。あの扉の分まで、次は取りこぼさない。そう決めたのは、三人一緒なのだから。
その言葉を聞いたミナが、匙を口に運びかけたまま、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえば〜」
「師匠も、今日はこっちに来てます〜」
紬の手から、匙がことりとテーブルに落ちた。




