碧 第14話 真実の狼
影の中の人物が、幹から背を離した。
木漏れ日の縁に、二本の脚で立つ灰色の毛並みの大きな狼が踏み出してきた。鼻先は長く、耳は尖り、口元からは白い牙がのぞいている。それなのに、首を傾げてこちらを見る仕草は、ひどく人なつこかった。
「怖がらなくていい。森で迷子にならないか、心配しただけさ」
狼は穏やかに笑い、少女の籠に目をやった。
「いい匂いだ。お届け物かな。どなたのところへ?」
少女が口を開きかけたのを見て、すずなは握っていた小さな手をそっと引いた。
「この子は、私たちが送っていきます」
狼の金色の目が、すずなに向けられた。値踏みするでもなく、怒るでもなく、ただ少し驚いたように瞬く。
「そうかい。頼もしい付き添いだ」
それから狼は、二股に分かれた道の片方へ、ゆったりと視線を流した。
「なら、私は近道を行くとしよう。お嬢さん、またあとで」
言い終えるより早く、灰色の姿は足音も葉擦れの音も残さずに、木々の奥へ溶けるように消えていた。
「先輩、今の……」
「先回りする気です」
紬の声に、すずなは即座に答えた。
「心春さん、紬さん。先に、おばあさんのお家へ」
「先輩は」
「この子と一緒に、普通に歩いていきます。走らせたら、転んでしまいますから」
すずなの言葉に、心春が頷いた。
「フィン、お願いします。家までの道を、上から」
透き通った翼が梢の上へ舞い上がり、心春は足元を蹴った。踏み込んだ地面から姿が掻き消え、数歩先の木の陰に現れては、また消える。紬も魔銃を握り直し、その背中を追って駆け出していった。
すずなは少女の手を握ったまま、もう一方の道を歩き出した。少女はしばらく黙ってついてきていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「さっきの狼さん、優しそうだったね」
すずなは一瞬、言葉に詰まった。優しい顔をして近づいてくる狼に気をつけなさいという、あの教訓が頭をよぎる。
「優しそうに見える人の中には、気をつけないといけない人もいます」
そう言ってから、すずなは少女の手を握り直した。
「でも、本当に優しい人も、ちゃんといます。だから、見た目だけで決めないで、よく見ることが大事なんだと思います」
「よく見る……」
少女は口の中で繰り返し、それからこくりと頷いた。
フィンの声に導かれて森を抜けると、小さな家が見えた。藁葺きの屋根から細い煙が立ちのぼり、戸口には木の掛け金が下がっている。
心春は戸の前で足を止め、息を整えながら耳を澄ませた。後から追いついた紬が、戸板にそっと手のひらを当てる。
「Echo Sight」
紬の囁きとともに、まぶたの裏に家の中の気配が輪郭を持って浮かび上がり、紬は息をひそめてそれを数えた。
「二人います。一人は奥のベッドで、寝てるふりをしてます。もう一人は、もっと奥の狭いところで、じっとしてます」
「おばあさん、でしょうか」
「たぶん。まだ、生きてます」
紬は魔銃を胸の前に構え、心春に目で合図した。心春が掛け金の紐を引くと、戸は軋みもせずに開く。
薄暗い部屋の奥に、ベッドが一つあった。毛布が膨らみ、その上からレースの寝帽がのぞいている。寝帽の下から突き出ていたのは、灰色の毛に覆われた、長い鼻先だった。
「動かないでください」
紬が銃口を向けると、毛布が跳ね上がった。おばあさんの寝間着を着た狼が、ベッドの上で身を起こす。牙が光り、低い唸り声が部屋を満たした。
「ずいぶん早いお着きだ」
「バザルト、お願いします!」
狼が床を蹴るより早く、心春の声に応えて床板の下から土が噴き上がった。盛り上がった土が狼の足を絡め取り、腰まで呑み込んで、その場に縫い止める。
「おばあさんは、奥にいますね」
紬は銃口を逸らさないまま言った。狼は土に埋まった自分の足を見下ろし、それから二人の顔を見上げた。牙を剥いていた口元がゆっくりとほどけ、喉の奥からこぼれた声からは、さっきまでの唸りがすっかり消えていた。
「ああ。やっと、止めに来てくれる人がいた」
狼の輪郭が、ざらりと揺れた。灰色の毛並みが砂粒のようなノイズに覆われ、端から一枚の布のように剥がれ落ちていく。長い鼻先も、尖った耳も、牙も、ほどけて床に溜まっていき、後にはおばあさんの寝間着を窮屈そうに着た、一人の青年が残された。
柔らかそうな髪に穏やかな目元をしたその青年は、困ったように眉を下げて寝帽を外した。
「その通りだ。奥の戸棚の中にいる。食べたことにして、隠しておいた。いつも、そうしている」
心春が部屋の奥の戸棚を開けると、中には椅子が一脚置かれ、膝掛けをかけたおばあさんが、うとうとと居眠りをしていた。心春の声に目を開けたおばあさんは、二人の顔を見て、それから戸棚の外の青年を見て、のんびりと微笑んだ。
「あら、今回はお客さんが多いねえ」
その一言に、紬は全身から力が抜けるのを感じた。銃口を下ろし、大きく息をつく。
「あなたは、誰なんですか」
心春が問いかけると、青年は自分の足元に溜まった灰色の毛皮を見下ろした。
「この物語の、狼の役だ。三姉妹も、あの谷の巨人も、たぶん同じだろう。この場所の者は、みな与えられた役を演じている」
青年は寝間着の袖を気にするように引っぱりながら、窓の外へ目をやった。
「この物語は、娘が食べられて終わる。助けは来ない。何度繰り返しても、そうだった。だから、せめて食べたことにして、二人とも隠しておいた。誰かが気づいて、止めてくれるまで」
森の方から、二つの足音が近づいてきた。戸口の前で、小さな足音が止まる。
「おばあちゃん、わたしよ。ガレットと、バターの壺を持ってきたの」
少女の声だった。紬が戸を開けようと一歩踏み出した時、青年の口から、おばあさんの声色そっくりの言葉がこぼれた。
「紐をお引き。掛け金が外れるよ」
言ってしまってから、青年ははっと口元を押さえた。紬と心春の視線が、ゆっくりと青年に集まる。
「すまない。何百回も言ってきたものだから、つい」
耳まで赤くした青年を横目に、紬が戸を開けた。
「大丈夫です、先輩。おばあさん、無事です」
戸口に立っていたすずなが、ほっと息を吐いた。その手を振りほどくようにして、少女が部屋へ駆け込んでいく。
「おばあちゃん!」
戸棚から出てきたおばあさんが、両腕を広げて少女を抱きとめた。籠の中のガレットが揺れ、バターの壺がことりと鳴る。
おばあさんの腕の中で、少女がふと顔を上げた。部屋の隅に立つ青年と、その足元の灰色の毛皮を、じっと見つめる。それから籠に手を入れ、ガレットを一切れ割り取って、青年の前まで歩いていった。
「狼さん。おばあちゃんのこと、隠してくれてたんでしょ」
青年が目を瞬かせた。
「よく見たら、分かったの。だから、これ、あげる」
小さな手のひらに載ったガレットを、青年はしばらく見下ろしていた。やがて膝を折り、少女と同じ目の高さで、それをそっと受け取る。
「ありがとう。何百回も演じてきたけれど、こんなものをもらったのは、初めてだ」
少女の頭巾の縁が、もうノイズに揺れることはなかった。その瞬間、三人の頭の中に声が響いた。
『"Le Petit Chaperon Rouge" の試練を達成しました』
すずなの胸の奥で、何かが目を覚ました。薄い布を一枚ずつめくっていくように、目に映るものの奥が、ほんの少しだけ透けて見えてくる。
『Veil Piercer(看破の加護)を獲得しました』
「私も、何か……」
紬が自分の目元に手を当てる。言葉の奥にあるものが、わずかに色を帯びて見えるような感覚に、紬は何度も瞬きを繰り返した。
『Veritas Sight(真眼の加護)を獲得しました』
最後に、心春の足元で、土がかすかに脈打った。
『Earth Bind(拘束の加護)を獲得しました』
「傷つけずに、捕まえておく力……みたいです。さっきのバザルトみたいに」
心春が自分の手のひらを見つめながら呟いた。すずなは二人に頷いてから、青年の方へ目を向けた。
ガレットを手にしたまま立ち上がった青年の横顔を見ているうちに、すずなの胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。
「あの。あなたは、何者なんですか」
青年はすずなを振り返り、少し考えてから首を横に振った。
「狼の役だ。それ以上のことは、私自身にも分からない」
嘘をついている顔ではなかった。それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。困ったように笑う時の、わずかに首を傾ける仕草を、どこかで見た気がする。
「変なことを言うようですけど。どこかで、お会いしたことがありませんか」
青年の目が、わずかに見開かれた。けれどすぐに、その表情は柔らかくほどけていく。
「さあ。私には、分からない。だが、君がそう感じるなら、何か意味があるのかもしれないね」
青年はそう言って、足元の灰色の毛皮を拾い上げた。それを丁寧に畳み、ガレットを持っていない方の腕にかける。
部屋の隅に、見覚えのある扉が現れていた。頭巾をかぶった女の子と、その背中に寄り添う影の絵が、淡い光の中に浮かんでいる。
三人が扉の前に立つと、少女がおばあさんの腕の中から手を振った。すずなは手を振り返し、それから最後にもう一度だけ、青年を見た。
青年は畳んだ毛皮を腕にかけたまま、窓辺に立っていた。少女にもらったガレットを、壊れものでも扱うように両手で包み、一口も食べようとはしなかった。




