常連おじさんのキラーパス
1. 昼下がりのサフラン、平和な勘違い
「いやぁ、いつ見てもお似合いだねぇ、二人は」
平日の昼下がり。お客のまばらな『サフラン』のカウンター席で、常連の佐藤おじさん――近所の工務店の社長が、嬉しそうに目を細めてカップを傾けた。
カウンターの奥では、美緒が上品にコーヒーを淹れ、その横のテーブル席では、翔がいつものヨレたTシャツ姿で、最新の週刊漫画雑誌を読み耽っている。どれだけ美緒に理不尽に怒鳴られても、実家のようにケロリとしてナポリタンを食べている翔の姿は、第三者から見れば「完全に出来上がった関係」に映るのだった。
「本当、若い頃の俺たち夫婦を見てるみたいだよ。まだ籍は入れてないんだろうけど、空気感はもう『新婚の若夫婦』そのものじゃないか」
「ぶっっ……!?」
美緒の手元が狂い、危うくコーヒーをこぼしそうになった。
トレイを盾のように胸元にガッと構え、顔を一瞬で沸騰させる。
(し、ししし……新婚の、若夫婦ぅぅぅーーーっっっ!?!?)
美緒の脳内コンピューターは、1秒間に4万回ものウソの未来予想図を弾き出した。フリルエプロン姿の自分と、新居のコタツで物理のレポートを書く翔。そして「美緒、醤油取って」と言われて顔を真っ赤にする自分――そこまで妄想して、美緒の脳内回路は一瞬でオーバーヒートを起こした。
2. マドンナの照れ隠しと、ウルトラCの脳内補正
「な、何言ってるんですか、佐藤さん! 冗談はやめてくださいっ!」
美緒は大学一のマドンナとしての仮面を必死に取り繕いながら、激しく手を振って否定した。
「この男はただの、デリカシーが宇宙レベルで欠如した生意気な後輩です! 夫婦だなんて、私のこの、全大学男子を魅了する気高き美貌とプライドにかけて、天地がひっくり返ったってあり得ませんから!」
それは、あまりの恥ずかしさに破裂しそうな美緒の、精一杯の「照れ隠し」だった。
しかし、激しい拒絶とは裏腹に、美緒の脳内ではすでに次の「恋愛心理戦」が完璧に構築されていた。
(ああ、佐藤さん、なんて余計なアシストを……っ! でも、これで翔の出方が決まったわ。本命である私への気持ちを、サフランの常連さんの前でどう表明するか……。あの計算高い男のことよ、ここでニヤリと笑って『いやぁ、佐藤さんには敵わないな。バレちゃいました?』とか言って、私をさらに独占欲の沼にハメてくるに決まってる……! さあ、どう来るの、翔……っ!)
美緒は細い指先でトレイをギリィ……と握りしめ、上気した瞳で翔の反応を待った。
3. ノンシャランの一撃、そして撃沈
そんな美緒の猛烈な脳内サスペンスを、1ミクロンも知る由もない翔は、漫画雑誌からゆっくりと顔を上げた。
もぐもぐと口に残っていた大盛りナポリタンを飲み込み、お冷やをごくりと干す。彼にとって、佐藤おじさんの言葉は単なる「事実と異なるデータの入力」であり、その誤解は速やかに修正(エラー処理)されるべき対象に過ぎなかった。そこには照れも、計算も、1ミリの邪心すら存在しない。
翔はいつもの気の抜けた、ナチュラルすぎる平熱のトーンで、淡々と言い放った。
「え? 違いますよ?」
「………………え?」
美緒の思考が、完全に停止した。
「俺たち、夫婦でも何でもないです。ただの店員と、コーヒー1杯で最新の漫画が読めるから通ってる居候みたいなもんです。佐藤さん、眼科行った方がいいですよ?」
「ははは、そうか、こりゃ失礼した!」
豪快に笑う佐藤おじさん。
しかし、カウンターの奥では、美緒のプライドが音を立てて木っ端微塵に粉砕されていた。
(ふ、普通に……100%の真顔で全否定したぁぁぁぁぁーーーっっっ!?!?)
「え? 違いますよ?」という、あまりにもノンシャランで、1ミリの含みも、1ミリの焦らしもない、ただの残酷な現実。
(な、何なのよその『え?違いますよ?』って平熱なトーンは……っ! 少しは乗っかるとか、私をからかって楽しむとか、ハンターらしい心理テクニックを見せなさいよ! 息をするように私を現実の底へ突き落とすなんて……あ、あんたって人は、計算高いどころか、ただの血も涙もない、最高に分からず屋の宇宙人ね……っ!)
期待が大きかった分、落差は底なしだった。怒りと羞恥、そしてちょっぴりの悲しさで瞳にじわりと涙が浮かぶ。
美緒は真っ赤な顔のまま、トレイで顔を隠すようにして厨房へドスドスと引きこもり、ガシャーン! ガラガラッ! と、あからさまな八つ当たりの皿洗いを始めた。
テーブルに残された翔は、フォークを握ったまま、宇宙の真理を見失ったような顔で首を傾げる。
「……はぁ。美緒さん、なんでまた怒ってんだろ。事実を言っただけなのに。やっぱり女の子の感情のアルゴリズムは、量子力学の不確定性原理より複雑だなぁ……」
昼下がりの『サフラン』に、邪心ゼロの翔の的外れな呟きと、勝手に撃沈して羞恥の炎を燃やすマドンナの皿洗いの爆音だけが、虚しく響き渡るのだった。
(第9話・終わり)




