黒い刺客
1. 悲鳴なきパニックと、謎の兵器
「……っ!!」
平日の昼下がり。『サフラン』のカウンターの隅を片付けていた美緒は、恐怖のあまり声にもならない悲鳴をあげて跳びのいた。
冷蔵庫の隙間から、カサカサと不穏な音を立てて現れた、黒くて素早いシルエット。
――奴だ。人類最大の敵。
美緒はモップを武器のように構え、椅子の上に立ち上がってガタガタと震えだした。大学一のマドンナとしてのプライドが「大声をあげて怯える姿」を許さない。ついでに言えば、椅子に飛び乗ったせいで自慢のミニスカートの裾が翻り、完璧な黄金比を誇る『絶対領域』が完全に無防備な状態になっていた。
だが、今の美緒にそこを気にする余裕はない。ただ無言で、涙目で硬直するしかなかった。
その時。
いつもテーブル席で、大盛りナポリタンを平らげた後に最新の週刊漫画雑誌を読み耽っている男――翔が、ふっと漫画から顔を上げた。
美緒の「無言のガタガタ」という微かな振動から、ただならぬ異変を察知したのだ。
翔は椅子から立ち上がると、無言のまま迷いのない足取りで動き出した。
(ま、待って……!? あいつ、私が何も言っていないのに、私の異変を察知して動いてくれた……!? やっぱり私のことが心配で目が離せないってコト!? しかも、私の絶対領域をガン見することすらなく、紳士的に大人の余裕を醸し出しながら……! ああ、普段はぶっきらぼうだけど、やっぱり私を守るためのナイト(騎士)だったのね……っ!)
――と、美緒の脳内お花畑が満開になったのも束の間。カウンターに戻ってきた翔の手に握られた「得物」が視界に入った瞬間、美緒の思考は完全に停止した。
(――って、ちょっと待ちなさいよ。何よそれ、なんで玄関の『手指消毒用アルコールスプレー』持って戦闘態勢に入ってんのよぉぉぉーーーっっっ!? なんでそんな無駄に良いフォームでボトル構えてんのよ! ノズルをコキコキ鳴らしてんじゃないわよぉぉぉ!!!)
真剣な顔でアルコールボトルのノズルを人差し指で弄ぶ翔の姿に、美緒の脳内ツッコミが炸裂する。しかし翔の目は、美緒の太ももはおろか顔すらすっ飛ばして、床の黒い影を平然とロックオンしていた。
2. 宇宙人の観測と、理不尽なアルゴリズム
「美緒さん、動かないでくださいね。相手はペリプラネタ・フリジノーです」
「学名で呼ぶなーーーっっっ!!! いいから早く何とかしなさいよ!!」
美緒の絶叫にも動じず、翔はアルコールを構えながら、気の抜けた平熱のトーンで言った。
「下手に新聞紙とかで叩こうとして刺激すると、ベクトルの予測がつかない乱気流に乗って、美緒さんの顔に向かってフライトしてくるリスクがあります。奴らの危険察知センサーは空気のわずかな振動を感知するので、美緒さんが椅子の上で震えて床を鳴らしているのは、敵へのビーコン送信になってて完全に逆効果のアルゴリズムですね」
(な、何なのよその無駄に精密な解説は……っっ!! 殺虫剤の代わりにそのスプレーで戦うつもり!?)
美緒は恐怖と怒り、そして一瞬でも期待してしまった恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。
(この男、私が怯えているのを知っていて、わざとじわじわ焦らしているんだわ! 恐怖で私を極限まで追い詰めて、その変なスプレーで劇的に仕留めることで、私のハートを完全に服従させようっていうプレデターの高等戦術なんだわ……っ! ああ、なんて冷酷非道で、もの凄くずるい男なの……!)
「いいから! 能書きはいいから早くしてよぉぉーっ!!」
3. 最適化された一撃と、絶望の平熱
「すぐ終わりますから」
翔はため息混じりに言うと、床の奴に向かって無造作に腕を伸ばした。
シュッ、シュッ、シュッ。
「あ、危ないわよ、翔……!」
思わず声をかける美緒の前で、翔は冷徹にトリガーを引いた。
高濃度のアルコールを直撃された漆黒の刺客は、ほんの数秒でもがき、そして完全に沈黙した。
「ゴキブリの死因の多くは窒息なんです。体表の油膜を高濃度アルコールで溶かせば即座に気門が閉塞します。物理的に叩き潰すよりも、サフランの床を汚さないという意味で、コストパフォーマンスが最適なんですよね。大学の物理の実験室でもよくやる手です」
留年するくらい大学の勉強は劣等生のくせに、なぜかこういう雑学だけは無駄にロジカルに記憶している男である。
翔は奴をキッチンペーパーでパッと掴んでゴミ箱へ放り込んだ。秒殺。完全なる作業の完了だ。
「よし、エラー処理完了です」
パチパチと手を叩いて振り返る翔。
美緒は椅子の上で絶対領域を晒したまま固まっていた。そのあまりにも「ヒーロー感ゼロ」の冷徹なプロフェッショナルぶりに、背筋が凍りついていた。
(た、助けてはくれたけれど……な、何なのその、精密機械みたいな処理の仕方は……っ!)
美緒の脳内では、すでにウルトラCの恐怖補正がかかっていた。
(あいつ、3億年の進化の結晶を、表情一つ変えずに一瞬で窒息死させたわ……。**しかも、私のこの決死の絶対領域には1ミリも視線をブレさせなかった。**つまり、私があいつの計算から外れたら、あんな風に冷酷に『エラー処理』されるってコト……!? 命を救われたはずなのに、なぜかあいつの底知れない支配の檻に、さらに深く閉じ込められた気がするわ……っっ!!)
「……美緒さん? いつまで椅子の上にいるのですか」
「うるさーーーーーいっっっ!!! あんたなんか大嫌いよぉぉぉーーーっっっ!!!」
昼下がりの『サフラン』に、命を救われたはずのマドンナの理不尽な怒号が、虚しく響き渡るのだった。
(第10話・終わり)




