作戦実行
ファミレスでの作戦会議から数日後の平日。
夜の『クローバー』のピークタイムがようやく過ぎ、店内の喧騒も少しずつ落ち着きを見せていた。
カウンターの中でテキパキとグラスを洗っている翔先輩の背中を、私はホール側から見つめていた。
(……やっぱり、ただの理系ゾンビってわけじゃないんだよね)
私はお盆を胸に強く抱え直した。
先輩は、美緒先輩の気持ちに本当に気づいていないわけじゃない。
「留年している自分」と、大学のマドンナである「文学部の美緒先輩」。
その埋めようのない格差を一番よく理解しているからこそ、わざと鈍感のふりをして、美緒先輩の切実な熱から逃げているのだ。
自分がこれ以上傷つかないために。そして、いつか彼女をがっかりさせてしまうのが怖いから。
(そんなの……全然格好よくないですよ、先輩)
胸の奥がキュッと痛む。
昔の私なら、そんな2人のチグハグなすれ違いを「もどかしいなー」なんて特等席からニヤニヤ眺めていられたはずだった。
だけど、今の先輩の、今にも消えそうなマッチの残り火みたいな横顔を見ていたら、もう笑っていられなくなってしまった。
私は幼稚園科の学生だ。
泣き出しそうな顔をして本音を隠している子供を、見過ごせるほど器用じゃない。
たとえそれが、20歳を過ぎた大人の男だったとしても。
(ごめんね、美緒先輩。ちょっとだけ強引な方法、使わせてもらいます)
時計の針は10時を回ったところ。
カウンター越しに伝票の整理を終えた私は、エプロンのポケットの中でスマホを操作し、一通のメッセージを送信した。
それから、カウンターの中で静かにグラスを洗い続けている先輩の隣へ、すっと歩み寄った。
「翔先輩」
「ん? なに、香織。ドリンク? もうピークは過ぎたから急がなくて大丈夫だよ」
「違います。私、もう先輩たちのすれ違いを特等席で笑って見てるの、やめました」
洗剤の泡を流していた先輩の手が、ピタッと止まった。スポンジを持ったまま、困ったように眉を下げて私を見る。
「……何のこと? 唐突だね」
「分かってるくせに。美緒先輩から貰ったマッチ、まだ大切にポケットに入れてるんでしょ」
先輩は視線を泳がせ、それから諦めたように小さくため息をつくと、蛇口を止めてタオルで濡れた手を拭いた。
「……僕なんかじゃ、彼女の横に立つ資格なんてないんだよ」
カウンター越しに落とされたその声は、いつもの間の抜けたトーンではなかった。低く、悲しいほどに静かな本音だった。
「留年して、将来のことだってまだ何も決まってない。美緒ちゃんは綺麗で、華やかで、僕とは住む世界が違うんだ。だから……あんなロマンチックな比喩、僕が受け取っちゃいけないんだよ」
やっぱり。
先輩は、全部分かっていたんだ。美緒先輩の不器用なメッセージも、その手のひらに残った熱の意味も。ただ、自分が傷つくことから逃げていただけだった。
「最低ですね、先輩」
私はわざと、鋭く冷たい声で言い放った。先輩がハッとしたように顔を上げる。
「そうやって理屈の蓋をして、いつまで引きこもるつもりですか? 先輩がそうやって鈍感を装っている間、美緒先輩がどれだけ傷ついて、どれだけの覚悟でそのマッチを渡したか、考えたことあります?」
「それは……」
「もう、逃げるのはおしまいです」
私はポケットからスマホを取り出し、画面をカウンター越しに突きつけた。そこには『送信済み』の文字。
「さっき、美緒先輩にLINEしました。『クローバーで翔先輩が、他の女の子と楽しそうにマッチの思い出話をしてますよ』って」
「えっ!? ちょっと、香織、何してくれてるんだよ!」
先輩が本気で色を失い、身を乗り出して私のスマホを覗き込もうとする。
「引き金を引いたんです。私のアシストはここまで。傍観者は営業終了ですから」
私は背筋を伸ばし、先輩のズボンの右ポケットをビシッと指差した。
「美緒先輩が来たら、今度こそちゃんと向き合ってください。理系の雑学じゃなくて、先輩自身の泥臭い言葉で。……じゃないと、私、本当に先輩のこと軽蔑しますからね」
言い捨てて、私はくるりと背を向けた。
バクバクと暴れる心臓を押さえながら、入り口近くのテーブル拭きへと向かう。
その直後だった。
カランコロン! と、静まりかけた平日の店内に、あり得ないほど激しい音を立てて『クローバー』の重いドアが開いたのは。
夜の冷気とともに飛び込んできたのは、息を荒らげ、今にも相手を噛み殺しそうな勢いで肩を怒らせた美緒先輩の姿だった。
彼女の鋭い視線が、真っ直ぐカウンターの中の翔先輩を捉える。
(よし……完璧)
私は心の中でガッツポーズを決め、最後にチラリと振り返った。
ポケットの中のマッチ箱をギュッと握りしめたまま、逃げ場を失って立ち尽くすカウンターの翔先輩。
さあ、逃走劇は終わりだ。あとは、当事者たちだけの熱い時間だった。




