遅かったじゃない
あの日、私が引いた引き金のせいで、すべては臨界点へと向かって加速していった。
怒りと不安を隠そうともせず『クローバー』に乗り込んできた美緒先輩は、いつもの高飛車な仮面を被ることも忘れて、ただがむしゃらにお酒を煽った。
翔先輩が自分を置いてどこか遠くへ行ってしまうのではないか――そんな孤独と焦燥が、お酒の力を借りて一気に決壊していくのが分かった。
「……もう、見てられませんよ」
閉店後の静まり返った店内で、私はカウンターに突っ伏して完全に酔い潰れた美緒先輩と、その横で立ち尽くす翔先輩を見つめていた。
私は無言で、あらかじめ手配しておいたタクシーの到着を告げるスマホの画面を先輩に見せた。
「先輩。下心とか、理屈とか、そういうのはもう全部ゴミ箱に捨ててください。……行って」
私は一度も振り返らずに、一人で夜の街へと歩き出した。傍観者の席は、もうどこにもない。ここからは、あの二人だけの夜だ。
◆◆◆
大学の近く、深夜の僕のアパート。
「う……ん……」
頼りない蛍光灯の光の下、僕の古びた布団に横たわる美緒さんは、苦しそうに小さく呻き声を上げた。
下心なんて微塵もなかった。
ただ、あのまま夜の街に放り出すわけにはいかないという、極めて純粋な介抱の論理だけで、僕は彼女をここまでタクシーで連れ帰ってきた。
熱を帯びた彼女の呼吸が、静かな部屋に規則正しく響いている。
僕は万が一に備えて、彼女の布団のすぐ隣に自分の布団を敷き、そのまま横になった。
天井の染みを見つめながら、頭の中でいつものように物理の公式を並べ立て、高鳴る鼓動を鎮めようと必死だった。
(……僕は、ただの理系劣等生だ。マドンナである彼女とは、住む世界が違う)
そう自分に言い聞かせ、目を閉じようとした、その時だった。
カサリ、とシーツが擦れる音がして、何かが僕の右手に触れた。
驚いて目を開けると、美緒さんの細い指先が、僕の手を手探りで捜し当て、そして――ギュッと、驚くほどの力で握りしめてきた。
「……翔……」
眠っているのか、起きているのかは分からない。
だけど、彼女の手のひらから伝わってくるその圧倒的な「熱」に触れた瞬間、僕の脳裏にあの日、サフランで渡された小さなマッチ箱の記憶が鮮烈に蘇った。
ズボンのポケットで、ずっと微かに眠っていたあの熱。
僕はそれを、単に自分の体温が移っただけだと、物理現象として自己解決していた。
(違う……。違うんだ)
体温の移動なんかじゃない。
あのマッチ箱は、彼女が僕に渡す直前まで、愛おしさと、もどかしさと、僕を想う切なさのすべてを込めて、その手の中でずっと、何十分も、何時間も、必死に握り締められ続けていたからこそ、あれほどの熱を持っていたのだ。
彼女の熱が、僕の無機質な理屈の殻を、一瞬で融解させていく。
「美緒さん……」
気づけば、僕はロジックをすべて失っていた。
自分の気持ちに、彼女の本当の想いに、もう嘘をつくことはできなかった。
僕は吸い寄せられるように、彼女の体に覆い被さっていた。
美緒さんがうっすらと目を開ける。その瞳には、いつもの強がりな光はなく、ただ僕だけを映して潤んでいた。
ゆっくりと顔を近づけ、僕たちは静かに唇を重ねた。
エアコンの風の音さえ消え去った密室の中で、お互いの鼓動だけが激しく交錯する。
美緒さんの手が僕の背中に回る。その熱に身を任せ、このまま最後まで――そう思った瞬間、僕の脳裏に冷徹な現実が走った。
(あ……用意が、無い)
学生の、男の一人暮らしの部屋。そんな準備など、どこにもしてあるはずがなかった。
ここで理性を失って彼女を傷つけるわけにはいかない。それが、僕が彼女に対して果たせる、せめてもの誠実さだった。
「……ごめん。美緒さん」
僕はそっと体を離し、彼女の隣に再び横たわった。美緒さんは少しだけ不満そうに、だけどどこか安心したように、ふふっと小さく笑った。
それから、僕たちはどちらからともなく、もう一度固く手を握り合った。
インターロッキングされた指先から、互いの熱が、今度は境界線なく混ざり合っていく。
「おやすみ、翔」
「おやすみ、美緒さん」
世界で一番温かいその熱に包まれながら、僕たちは静かに深い眠りへと落ちていった。
◆◆◆
カーテンの隙間から差し込む朝の光で、僕は目を覚ました。
「……美緒さん?」
隣の布団に手を伸ばしたが、そこにはもう、彼女の姿も、その温もりも残っていなかった。
ただ、綺麗に畳まれたシーツだけが、夕べの出来事が夢ではなかったことを証明していた。
心臓がにわかに騒ぎ出す。
僕はパジャマのまま、ジーンズに履き替え、あのマッチ箱をポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
朝の冷たい空気が頬を刺すが、不思議と寒さは感じなかった。
向かう場所は、一つしかなかった。
全力で走り続け、息を切らしながら、僕は学生街の角にあるあのレトロな喫茶店の前にたどり着いた。
『喫茶サフラン』
カランコロン、とドアのベルが鳴る。
朝の澄んだ空気の中に踏み込んだ、その瞬間。
目の前にいたのは、真っ赤なワンピースを着た美緒だった。
「いらっしゃい、翔。……遅かったじゃない」
微笑む彼女のその声に、僕の心の中で、本物の火が灯った。
(FIN)
長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
この後の美緒と翔の物語は『うちの美緒さんは66歳にして美魔女です』にてお楽しみいただけます。
また、本作でサブキャラクターだった宮本拓海が主役の物語『Z世代の君へ、新人類の俺より — バブル前夜、ツケ飲み生活 —』も現在連載中です。
ぜひあわせてご一読いただけると幸いです!




