遥 ビヨンド・ザ・ホライズン
週末の金曜日。洋風居酒屋『クローバー』のドアを押し開けた瞬間、私は店内の空気に漂う微かな“違和感”を察知した。
隣を歩く三木俊はそんな気配にはまったく気づかず、翔を探してカウンターへ視線を走らせている。
「あ、翔のやつ、今日もカウンター立ってるわ。おーい、翔――」
三木がのんきに手を挙げ、歩き出そうとしたその瞬間。
サイドから小さな影が恐るべき俊敏さで滑り込んできた。
「いらっしゃいませー! 三木先輩、遥先輩! 奥のテーブル席へどうぞっ!」
小悪魔的な笑みを浮かべた香織は三木の背中に回り込むと、まるで園児を誘導するかのような手慣れた動作で、私たちを入り口から遠いボックス席へ押し込んだ。
俊は「え? いや、カウンター空いてるじゃん」と戸惑っている。相変わらず、こういう時の察しは悪い男だ。
私は、香織の目が楽しげにキラキラと輝いているのを見逃さなかった。
なるほど。これはただの席案内じゃない。彼女の悪癖――“おもしろい悪戯”を思いついた時の目だ。
「……香織ちゃん。何か企んでるでしょ」
メニューを開きながら低めのトーンで水を向けると、香織は「人聞きの悪いこと言わないでくださいよー」とわざとらしく肩をすくめた。
「ただ、今日はお二人に、とーっても重要なお話があるんです。お店が終わった後、ちょっとだけ相談に乗ってくれませんか?」
そう言って、人差し指を口元に当てる。
俊が「相談? 香織が?」と眉をひそめたが、私はすぐにピンときた。
香織がわざわざ私達を呼び止め、なおかつカウンターにいる“あの男”から遠ざけた理由。ターゲットは、津島翔。そして……喫茶『サフラン』のマドンナだ。
美緒先輩が翔にベタ惚れなのも、美緒先輩がプライドの塊ゆえに脳内暴走を起こしていることも、そして翔が物理法則以外には地球上で最も鈍感な男であることも、全部把握している。
香織のイタズラ心に火がついたのだ。
そして私の中の“知的好奇心”――つまり、この難解な恋愛方程式をどう解くかという興味がふつふつと湧き上がってくる。
「いいわよ。受けて立ってあげる。面白そうだし」
「さすが遥先輩、話が早い!」
嬉しそうに笑う香織を横目に、俊だけが「おいおい、俺の意見は……」と蚊帳の外で困惑していた。
香織が注文用タブレットを持って一旦下がった直後、スマートフォンが小さく震えた。画面を見ると、香織からのLINE。
『相談に乗ってくれるお礼に、仕掛けを一つ。この文章をコースターの裏に書いて、翔先輩にカクテルを注文してください!』
その下には太字でこう指定されていた。
「俊が私に勧めそうなカクテルを作って」
なるほど、と私は心の中でニヤリとした。香織のターゲットは翔、そして目の前で暢気にメニューを眺めている俊の2人。
俊が私にどんな酒を勧めるかというクイズを翔に出し、理系脳の翔がどうバグるか観察する――そんな盤面だ。
私は香織の言う通りコースターに文字を滑らせ、近くを通った香織に手渡した。
「……? 何これ」
オーダーを受け取った翔は怪訝そうに文字を見つめ、それから俊にチラリと視線を走らせた。何かを深く思考する表情を見せた後、「了解」とだけ言ってグラスを用意し始めた。
しばらくして、カウンターにいた翔が直接、1杯のグラスをトレイに乗せてやってきた。
「『ビヨンド・ザ・ホライズン』です」
感情の読めない声でそれだけ告げると、すぐにまた奥へ引き返していった。
「なんだそれ、裏メニューか?」
俊の声を、私は半分も聞いていなかった。
テーブルに置かれたのは、息をのむほど綺麗なグラデーションのカクテル。
底には、深海のように透き通るブルーキュラソーの青。
その上にそっと重ねられているのは、グレナデンとラムをシェークした情熱的な赤。
青から赤への完璧な対比。
それはまさに、遥か彼方の水平線(Beyond the Horizon)で、夜の静寂を破って鮮やかな太陽が昇ろうとしている瞬間を液体で描いたようだった。
無言でも伝わる、濃密な一杯。
(……嘘でしょ)
頬がみるみる熱くなる。心臓がトクンと跳ねた。
あの鈍感天然の翔が。よりによって、彼氏である俊が目の前にいる状況で、こんなロマンチックで情熱的な仕掛けを――。
――いや、待って。
これは私へのアプローチじゃない。
動揺する脳細胞をフル回転させ、私はハッと気づいた。
翔は、俊が私に向ける想いの深さと、二人が見つめている未来の広さを、持ち前の鋭い観察眼で正確に弾き出したのだ。
「俊なら、遥の存在をただの恋人ではなく、どこまでも広がる水平線の向こう側――自分を高めてくれるかけがえのない存在として捉えているはずだ」と。
自分の恋愛には地球上で最も鈍感なくせに、他人の感情のベクトルには恐ろしいほど敏感で繊細。
その瞬間、私は悟った。
――このイタズラ、私が“仕掛ける側”じゃなくて、本当の“ターゲット”だったのね。
視線を巡らせると、ホールの奥でトレイを抱えた香織が、満足げにニヤリと笑っていた。
『ね? 翔先輩って、実はすごいポテンシャル秘めてるでしょ?』
そう言いたげに。
私は熱くなった頬を隠すようにカクテルを一口飲み、小さく息を吐いた。
あの歩くブラックホールだと思っていた津島翔が、まさか事象の地平線(Event Horizon)を越えて、これほど繊細なパスを受け取れる男だったとは。
「いいわ、香織ちゃん。その挑戦、乗ってあげる」
自分のことには全く応用できない、その無駄に高い恋愛偏差値。
今夜の作戦会議で、徹底的に美緒先輩のために使わせてもらう。
私はカウンター奥で静かにグラスを拭く翔を見据え、これから始まる“キューピッド作戦”に向けて、静かに闘志を燃やし始めた。




