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心の焔を灯して

賑やかな繁華街の夜。金曜日の居酒屋『クローバー』の厨房は、いつも以上の熱気に包まれていた。


週末のピークタイム。オーダーの伝票が次々と飛び交う賑やかな店内で、私はお盆を片手に、カウンターでテキパキと接客をこなしている翔先輩の姿を遠目から見ていた。


(……あはは、先輩、さっきから分かりやすすぎますって)


今日の先輩は、明らかに挙動がおかしい。頻繁にズボンの右ポケットのあたりをチラチラと気にしているのだ。


注文を聞いている最中も、グラスを下げている最中も、ズボンの上から何か小さなものを確かめるようにそっと触り、また手を離す。その動作を、もう何十回も繰り返している。


私は足音を殺して、ドリンカーの前に立つ先輩の背後にすっと近づいた。


「翔先輩、さっきからチラチラポケット気にしてますね。何ですかそれ? 彼女からのラブレター?」


「うわっ、香織か。びっくりさせないでよ」


先輩はビクッと大きく肩を揺らし、それからいつものように困ったような、気の抜けた笑みを浮かべた。


「違うよ。昼間、サフランの美緒さんにこれ貰ったんだ。夜は冷えるから暖をとれってさ」


そう言って先輩がポケットから取り出したのは、少し色褪せたレトロなデザインの、『サフラン』のロゴが入った小さなマッチ箱だった。


その瞬間、私の脳裏ですべての線がカチリと繋がった。


(……あはは! 美緒先輩、相変わらずクドいくらいやりすぎ。初秋のこの季節にマッチで暖をとれって、完全に『私の愛の炎で心を温めなさい』って意味じゃないですか。それをこの昭和の鈍感男に素直に渡すとか、相変わらずハードル高すぎますって……!)


美緒先輩のツンデレが限界突破した脳内妄想が目に浮かぶようだ。


顔を真っ赤にして逃げ去ったであろう彼女の姿を思い浮かべ、私は笑いを噛み殺すのに必死になりながら、わざとトーンを落として意地悪く言った。


「へえ、美緒先輩、ロマンチックですねえ。


それ、心理学のメタファーですよ。


先輩が夜のバイト中に寂しくなったら、これで心に火を灯しなさいって意味に決まってるじゃないですか。


で、どうするんですか?


先輩、美緒先輩のこと考えて寂しがってます?」


いつものお決まりのやり取り。


「マッチの頭薬に使われてるのって『塩素酸カリウム』と『硫黄』なんだけどさ、これ擦った瞬間に一気に二酸化硫黄の刺激臭がするんだよ。もし店内でそんなことしたら、エアコンの風に乗ってお客様のカルパッチョが台無しになっちゃう。美緒さん、たまに突飛なこと言うから面白いよね」


みたいな明後日の方向の的外れな返答をして、私が盛大にツッコんで終わる——はずだった。


でも、今日の先輩の横顔は、どこか違っていた。


「いや、全然? そもそもマッチで心に火は灯らないよ」


先輩は至って真面目な顔で、洗ったばかりのグラスを店内の琥珀色の光にかざしながら、淡々と語り始めた。


その瞳には、いつものギャグめいた軽さは一切ない。


グラスを見つめるその瞳が酷く静かで、どこか遠くを見るように、寂しげに揺れていたのだ。


先輩の指先は、今も愛おしそうにポケットの中のマッチ箱の角をなぞっている。


まるで、そこに残る誰かの体温を必死に確かめているかのように。


(……待って。美緒先輩のあの重いくらいの想いを、先輩は本当に『気づいていない』の……?)


もしかして。この人は鈍感な振りをしているだけで、本当は美緒先輩の言葉の真意も、その奥にある痛いくらいの恋心も、全部わかっているんじゃないだろうか。


分かっているのに、応えられない理由があって、あえて「呆けた理系男」というお面を被って誤魔化しているんじゃないだろうか。


そう思い至った瞬間、胸の奥が冷やっとした。


レンズ越しにしか世界や人を真っ直ぐ見られない、この不器用で優しすぎる先輩の真実。


もし本当にそうだとしたら、この人はどれだけの苦しさと申し訳なさを抱えて、あの飄々とした笑顔を作っているのだろう。


「……まあ、いいですけど。あ、店長がそっちのドリンク作れって言ってますよ。美緒先輩の愛の塩素酸カリウムは、大事にポッケに仕舞っといてくださいね」


「うん、そうだね。あ、でもこれ、お会計の時にバースデープレートのキャンドルに火をつけるのには使えるかも。美緒ちゃん、意外と実用的なこと考えてくれたのかな」


「違います。100%違いますから、それ以上考えるのやめてあげてください。美緒先輩が浮かばれません」


私はいつもの軽快な調子を取り戻して冷ややかに突っ込むと、それ以上先輩の顔が見られなくなって、くるりと背を向けた。


再び忙しく動き出す先輩の背中を、店内を行き交うお客様の隙間から見つめる。


繁華街の賑やかな夜。グラスの触れ合う音と店内の喧騒。


ポケットの中のマッチ箱は、美緒先輩の必死で切実な愛のメタファーと、それを知りながら受け止めきれずに苦しむ翔先輩の孤独、そして真相に気づいてしまった私の少しだけ曇り始めた視線に挟まれて、やっぱりほんの少しだけ、熱を持ったまま静かに眠っていた。

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