灯火のメタファー
カランコロン、とドアのベルが鳴る。その頼りない音を聞くだけで、私の心臓は不規則なビートを刻み始める。
入ってきたのは、いつものようによれよれたチェックのシャツに、どこか気の抜けた顔をした男——翔だった。
そして、これもいつもと変わらず一目散にマガジンラックから最新号の漫画雑誌を取ってカウンターに座った。
「実験レポート疲れた。大盛りナポリタンお願い」
僅かな笑顔で私の顔を見る。
その笑顔を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、もどかしい痛みが走る。
どこか不器用で、いつも立ち止まっているように見える男。
でも、私は知っている。
彼が誰も気に留めないような小さな事象に目を輝かせ、誰よりも純粋に世界の仕組みを知ろうとしていることを。
そして、そんな彼に、私はどうしようもなく惹かれているということも。
(だけど……どうして私ばっかり、こんなに胸を焦がさなきゃいけないのよ)
昨日の撮影会であんな表情をさせたくせに、当の本人はまるで何事もなかったかのように漫画をめくっている。
私ばかりが一人で翻弄されて、勝手に期待して、勝手に傷ついているみたいで悔しかった。
レンズ越しに見せてくれたあの鋭く切ない眼差しは、私の単なるうぬぼれだったのだろうか。
夕暮れが近づき、店内の琥珀色の照明が、翔の横顔を寂しげに照らし出す。
彼は夜になると、繁華街にある居酒屋『クローバー』のバイトへ行ってしまう。
夜の街。私の目の届かない場所。私の知らない誰かに、あの無防備な笑顔を向けたりするのだろうか。
そう思うだけで、私の心には冷たい風が吹き抜けるようだった。
「翔」
思わず、名前を呼んでいた。
「夜、冷えるかもしれないから……これで暖を取りなさい」
私はエプロンのポケットに深く手を突っ込み、あらかじめ用意していた『それ』を指先で握りしめた。
緊張で指先が震えそうになるのを必死でこらえる。
私は一歩踏み出し、立ち上がろうとした翔の右手を強引に引っ張った。
そして、彼の無骨な手のひらに、私の体温で温まりきった小さな四角い箱を、ギュッと、これ以上ないほど強く握らせた。
「……え?」
翔が一瞬だけ目を見開き、どこか固まったような仕草を見せてから、ゆっくりと手を開く。
そこにあったのは、『サフラン』の、あの少し色褪せたレトロなロゴが入った、小さなマッチ箱だった。
「え? バーの店内はエアコン効いてるから寒くないよ?」
翔は首を傾げ、いかにも不思議そうにマッチ箱を見つめている。
そのいつもの「気の抜けた」反応に、私の胸の奥の焦燥感が一気に爆発した。
「いいから持っていくの! ……じゃあね。夜のバイト中も、ちゃんと私のこと考えて寂しがりなさいよ?」
——これで心に火を灯しなさい。
——私の愛の炎を、片時も忘れずに持っていきなさい。
そんな文学的で心理学的な私のメッセージ(メタファー)が、どうか彼の分厚い理系の殻を破って届きますように。
私はそれ以上自分の顔を見られるのが耐えられなくなり、ふいっと顔を背けた。
そして、パタパタと足音を立てて逃げるように店の奥へと歩み去った。振り返る勇気は、今の私にはなかった。
だから私は気づかなかった。
さっきまでの「呆けたような顔」を一瞬で削ぎ落とした翔が、そのマッチ箱を指先でじっと見つめていたことに。
◆◆◆
手のひらに残る美緒さんの熱。
パタパタと慌ただしい足音が厨房の奥へと消えていくのを見届けた瞬間、俺はあらかじめ作っておいた「間の抜けた顔」を一気に削ぎ落とした。
ゆっくりと右手を開く。
そこに転がっていたのは、サフランのロゴが入った、たった数本のマッチ棒しか入っていない小さな木箱だった。
これでどうやって暖をとるのだろう。
物理的な「熱」の話ではないことくらい、いくら世間から鈍感呼ばわりされる俺であっても痛いほどよく分かる。そんな理屈、考えるまでもない。
これは、不器用で真っ直ぐな彼女が振り絞った、切実な想いのメタファーだ。俺にわからないはずがなかった。
「暖を取れ、か……」
手のひらに残る温もりと、小さな箱の重みに耐えかねるように、俺は静かに唇を噛み締め、深く息を吐き出した。
こんなにも真っ直ぐに、誤魔化しようもないほどの熱をぶつけられて、どうして気づかないフリを続けられるだろう。
レンズ越しに捉えてしまった彼女の恋心も、それを受け止めきれずに「冴えない留年男」のフリをして逃げてばかりいる自分の歪さも、全てを知っているのは俺自身なのに。
「……ずるいな、美緒さんは」
消え入りそうな呟きは、誰の耳に届くこともなく、夕暮れ時の店内に虚しく消えていった。
俺はそのマッチ箱をポケットの奥へと大切に押し込むと、彼女が逃げ去った奥の扉へ一度だけ視線を向け、逃げるように重い足取りでサフランを後にした。




