歪んだフィルターの真実
大学の近くにある、少し散らかった木造アパートの一室。
津島翔は、鍵を開けて静まり返った部屋へと足を踏み入れた。昼間のぼさぼさの髪、ヨレたTシャツ、あるいはどこか焦点の定まらない眠たげな目は相変わらずだ。
彼は大きなリュックを床に下ろすと、どさりとベッドの端に腰掛けた。
テレビをつけることもなく、スマートフォンの画面を見ることもない。ただ、部屋の蛍光灯が淡々と照らす静寂の中で、彼は首に掛けたままだった一眼レフカメラの電源を、ゆっくりと入れた。
液晶画面がパッと灯り、今日撮影した最後のカット——美緒の姿を映し出す。
翔は、その画面をただじっと、静かに見つめ続けた。
その瞬間、彼の纏う空気が完全に一変した。
昼間の、あの周囲を呆れさせるような「鈍感天然男」の気配は、霧のように綺麗に消え去っていた。
「……やっぱり美緒さん、綺麗だったな」
ぽつりと、静かな部屋に呟きが落ちた。
その声には、普段彼が連発するような間の抜けた響きは、1ミリも含まれていない。低く、深く、自分の心に刻み込まれた事実をただ確かめるような、至極まともで、切実なトーンだった。
津島翔という男は、決して、本当に何も見えていないわけではない。
理学部物理学科で宇宙の法則や光の屈折を学ぶ彼は、レンズの向こうにある世界の美しさに対して、誰よりも敏感で、誰よりも誠実だ。だからこそ、サフランのカウンターでいつも自分を優しく迎えてくれる美緒の温かさも、今日あの過酷な場所で文句を言いながらも自分の要求に最後まで応えてくれた健気さも、その全てを最初から、ちゃんと理解している。
美緒が自分に向ける、あの特別な眼差しの意味だって、本当に何も気づいていないわけがないのだ。
ただ、彼は不器用すぎた。
自分の写真へのあまりにも純粋な情熱と、美緒という一人の女性が持つ圧倒的な存在感。それを前にしたとき、どう心の折り合いをつけていいのか、どう応えるのが正解なのかが、二十歳の彼にはまだ分からないだけなのだ。
だから彼は、無意識に「冴えない留年中の鈍感男」というフィルターを自らに被せ、いつも一歩引いた場所から世界を、あるいは彼女を眺めていた。
けれど、今日切り取ってしまったあの表情は、そんな彼の防壁を簡単に打ち砕くほどに本物だった。レンズは嘘をつけない。彼女を最高に美しく撮りたいと願った彼自身の情熱が、結果として、美緒の隠しきれない恋心と、それに応えきれていない自分自身の歪さを、残酷なほど鮮明に突きつけていた。
翔は、愛おしそうに、あるいはどこか苦しそうに、親指で液晶の中の美緒の頬をそっとなぞった。
カメラをそっと机に置くと、彼は部屋の明かりを消した。
暗闇の中、ベッドに深く体を預け、天井を見上げる。
レンズ越しにしか彼女を真っ直ぐ見つめることのできない、あまりにも不器用な男の本音が、静かな夜の闇の中にだけ、確かに、そして深く溶け出していた。




