クローバーの慰労会
過酷な夕暮れ時の撮影を終え、香織の運転するセダン車が戻ってきたのは、洋風居酒屋『クローバー』の前だった。
その日は定休日。本来なら真っ暗なはずの店だが、カウンターの奥にだけ、ぽつりと柔らかな明かりが灯っている。
「いやー、疲れた! 美緒さん、生きてます?」
「なんとか……。でも、足がまだチクチクする……」
香織が車のキーをポケットに放り込みながら店を押し開けると、冷房の効いた心地よい空間と、香ばしい燻製の香りが3人を迎えた。美緒にとっては、週末にカウンターに立つ翔を目当てに、いつも客として通い詰めている馴染みの場所だ。けれど、誰もいない定休日のクローバーは、どこかいつもと違う特別な空気をまとっていた。
「よし、それじゃあ大画面に映すよ」
翔は店に入るなり、自分の職場であるカウンターの機材へと向かい、慣れた手つきで愛機と店内の大型テレビをケーブルで繋いだ。昼間の冴えない雰囲気が嘘のように、機材を扱う手元だけはやけにスマートだ。
美緒と香織がいつものカウンター席に腰を下ろすと同時に、翔がリモコンを操作した。画面がパッと切り替わった瞬間、店内に小さな悲鳴に近い歓声が上がった。
「……えっ、これ、私……?」
美緒は思わず、自分が今どこにいるかも忘れて画面に見入った。持っていたバッグが床に落ちそうになるのも気づかない。
大画面に映し出されていたのは、あの泥だらけの殺風景な空き地で佇む、自分自身の姿だった。
しかし、そこに写る彼女は、ハイヒールを汚して困惑していた冴えない姿ではなかった。背景の枯れた木々は、夕暮れ前のドラマチックな斜光を受けて長い影を落とし、まるで世界の終わりに咲いた一輪の花のような、退廃的で息をのむほどに美しい世界観を作り出している。
何より、撮影の過酷さと、デートだと思って浮かれていた自分の惨めさに潤んでいた瞳が、カメラの奥の翔を真っ直ぐに見つめる、強く、切なく、儚い眼差しとして完璧に切り取られていた。頬を伝う一粒の涙が、夕日の光を浴びてダイヤのようにきらめいている。
「ほう……これは見事なもんだな、翔。あの殺風景な場所をここまでドラマチックに仕上げるとは。美緒ちゃんの隠れた魅力がこれでもかと引き出されてるよ」
カウンターの奥から、ふんわりと豊かな髭を蓄えた男が感心したように身を乗り出した。『クローバー』のマスター、榊健太だ。
今回の集まりは、もともと「翔と香織のバイトの慰労会」だった。美緒は特別ゲストだ。実は香織から事前に美緒の噂(翔への片思い)を聞いていたマスターが、「二人を労うついでに、その子も連れておいで」と香織に声をかけていたのだ。……まあ、単純に「美人の女子学生と一緒に飲みたい」という、おじさんらしい下心も半分くらいはあったのかもしれないが。
マスターの榊は深く頷くと、カウンターの上にコン、と新しくカクテルグラスを置いた。夕暮れの残光をそのまま閉じ込めたような、目も眩むほど綺麗なピンク色の液体が満ちている。
「美緒ちゃん、今日は翔のわがままに付き合ってくれてありがとう。これは俺からのささやかなお礼だ。しっかり飲みな」
「わあ……ありがとうございます、マスター……!」
美緒は感激しながら、そっとグラスを受け取った。いつもこの店に客として来るときは、愛しの翔が作るカクテルばかりを飲んでいる。だから、こうしてマスターが本気で作る「本格的なカクテル」を口にするのは、これが人生で初めてのことだった。
恐る恐る一口含むと、ベリー系の酸味の後に、上品な甘みと爽やかな香りがリッチに鼻に抜ける。翔のカクテルも大好きだが、やはりマスターの腕は格別だった。
翔と二人きりのロマンチックなディナーではなかった。けれど、美緒の胸の奥には、お酒のせいだけではない熱いものがじわりと込み上げてきた。
「ちょっとマスター! 翔先輩と美緒さんだけずるいです! 私にも何か特別なやつください!」
バイト仲間の香織がすかさずカウンターを叩いてねだる。
榊は悪戯っぽく笑うと、シェイカーを鮮やかに振ってみせた。
「分かってるよ、香織ちゃん。君は今日、一番の功労者だったんだろ? はい、特製ノンアルコール・シンデレラだ。未成年はこれで我慢しときな」
「さすがマスター、話が分かる! いただきまーす!」
香織は綺麗なオレンジ色のノンアルコールカクテルを受け取り、上機嫌で再びテレビ画面を振り返った。
「それにしても美緒さん、本当にこの『涙のカット』、ヤバいですよ。何考えてたらこんな表情できるんですか? 完全に恋に破れた悲劇のヒロインじゃないですか」
「えっ!? あ、いや、それは……その……」
美緒は図星を突かれて、せっかくのカクテルを吹き出しそうになった。サフランのカウンターでいつも翔のためにナポリタンを作っている時の余裕はどこへやら、今の美緒はただの真っ赤な少女だ。まさか「あんたたちのせいでデートが台無しになって本当に悲しかったから」とは口が裂けても言えない。
「美緒さん、本当に凄かったんだよ」
横から、ポテトサラダを口に放り込みながら翔が真顔で参入してきた。
「あのタイミングで、あんなに綺麗な涙を流せるなんてさ。普通は無理だよ。やっぱり俺の見込んだ通り、美緒さんは最高のモデルだ」
「も、モデルとして、だよね……?」
美緒が消え入りそうな声で確認するが、翔は「もちろん! 機材の影の入り方と完璧にマッチしてた!」と、どこまでも技術的な視点でしか返してこない。その徹底した天然ぶりに、マスターの榊はカウンターの奥で哀れみの混じった苦笑いを浮かべ、そっと美緒のグラスにカクテルを注ぎ足した。
「あはは、じゃあ次は香織の番ね」
翔がリモコンのボタンを押すと、画面が切り替わる。そこに映ったのは、デニム姿でカメラに向かってピースサインをする、弾けるような笑顔の香織だった。ポニーテールが揺れる一瞬の躍動感が、一切の無駄なく収められている。
「わあ、私ってば最高に可愛いじゃん! 運転手頑張った甲斐がありました!」
「香織は動くからピント合わせるの大変だったよ。でも、良い笑顔が撮れた。ほら、マスターも見てよ」
「どれ……おお、香織ちゃんの生真面目さとガサツさが絶妙に隠されて、いい娘に見えるな」
「ちょっとマスター! 褒めてるフリしてディスるのやめてください!」
店内に、香織の抗議の声と、男たちの笑い声が響く。
美緒は、グラスを傾けながら、もう一度テレビ画面の端に映る自分の写真に目をやった。
思い描いていたデートとは、180度違う日曜日。お気に入りの靴は泥だらけになり、足は蚊に刺されてボロボロ。それでも、大好きな男の子のファインダーを通して見た自分は、世界で一番大切に扱われているように見えた。
「今日はみんな、本当にお疲れさん。店の酒とつまみは全部俺の奢りだ、遠慮するなよ」
マスターの太っ腹な掛け声で、4つのグラスが小気味よい音を立てて合わさった。
時計の針が回るのも忘れ、写真の品評会という名の賑やかで温かい夜は、更けていくのだった。




