香織の彼氏
洋風居酒屋「クローバー」の店内には、閉店後の静けさとほのかな油の匂いが漂っていた。
「はぁ……終わったぁ……」
カウンターの端で、香織(19)は小さく息を吐き出し、そのままアクリル板に額を押し付けた。
保育科に通い始めて半年。実習で毎日暴れ回る園児たちと向き合い、気力も体力も底をついている。おしぼりを畳む手も、今は鉛のように重い。
そこへ、ドスンと重い音が響いた。
「香織ちゃん! あがりだろ? この後、スナック『オーキッド』行こうよ!」
顔を上げると、常連の拓海(24)が身を乗り出していた。隣には、同じ会社で研究者をやっているという類の姿もある。
(あ、拓海さんだ……)
普通なら「若い女の子と飲みに行こう」なんてチャラい誘いは警戒レベルマックスだ。
だが、香織は知っていた。拓海が「口だけは達者だが絶対に手を出してこない安全パイ」であることを。軽薄な態度とは裏腹に、線引きだけはやたらとしっかりしている根っからのチキン……いや、紳士なのだ。
それに、今の香織はとにかく疲れていた。
園児たちの元気すぎるエネルギーに削られまくり、胸の奥にはドロドロとしたストレスが溜まっている。誰かとパーッと騒いで発散したい気もするし、クローバーの常連同士なら断る理由もない。
「行きます! 連れてってください!」
「よっしゃ決まり! 若い女の子と飲むお酒ほど美味いもんはないからな! なぁ類?」
強引に引っ張る拓海の後ろで、類はどこか気まずそうに目を逸らすだけだった。
夜の街に繰り出し、スナック「オーキッド」の重いドアを開ける。
瞬間、カラオケの重低音と紫煙、常連たちの歓声が一気に押し寄せてきた。
「ママ! 来たよ! 今日も相変わらず世界一綺麗だねぇ!」
店に入るやいなや、拓海は香織のことなど露ほども気にせず、カウンター奥にいるママの蘭の元へ一直線に駆け寄っていった。
「ちょっと拓海くん、また調子いいこと言って! ほら、若い女の子困らせてんじゃないわよ」
「何言ってるのママ! 俺の目にはママしか映ってないって!」
拓海は蘭ママの隣にどっかりと腰掛け、怒濤の勢いで口説き始めた。グラスを交わし、昭和のデュエット曲を熱唱し、ママと常連客を巻き込んで爆笑をさらっていく。
(……あれ? 私、何のために呼ばれたの……?)
拓海の圧倒的なノイズに押し出されるようにして、香織と類はカウンターの最も離れた端っこへ並んで座る羽目になった。
発散したくてついてきたはずだった。
なのに拓海は香織の方を一度も振り返りもしない。ただひたすら蘭ママと親しげに話し込み、店の中心でスポットライトを独占している。
(安全パイすぎるのも考えものだな……放置プレイかい……)
実習疲れの頭に、拓海の爆音がガンガンと響く。
騒いで発散するどころか、あまりの熱量と居心地の悪さに、香織はすっかり胃もたれを起こしそうになっていた。
逃げ出すこともできず、ふと隣を見る。
類は静かにグラスを傾けていた。
拓海のように騒ぐわけでもなく、無駄に話しかけてくるわけでもない。不機嫌そうでもない。ただ、そこに透明な空気のように佇んでいる。
氷がカランと音を立てた。
「……賑やかすぎるか?」
類の低く落ち着いた声が、騒音を抜けて届く。
「あ……いえ、拓海さん、すごいなって……」
「あいつは昔からあんな調子だ。……でも、お前には刺激が強すぎたな」
類はグラスを見つめたまま、ぽつりと言った。
「実習、どうだ」
「……子供は、すごくかわいいんですけど。時々、一人になりたくなります」
喧騒に紛れてこぼれ落ちた、香織の本音。クローバーでは誰にも言えなかった疲れの塊。
届いていないと思えるほどの小さな声だった。
しかし、類はゆっくりと香織の方へ顔を向けた。
「……子供は、全力だからな。受け止める方も、削られる」
静かで、短くて、けれど的確な一言。
研究者らしく客観的でありながら、香織の疲労をそのまままるごと包み込んでくれるような優しい声だった。
香織の胸の奥で、カチコチに凍りついていたものが、すっと溶けていく。
「……分かるんですか?」
「俺も、実験で毎日データを追ってると、たまに脳が焼き切れそうになる。そういう時は、何も言わずにただ横にいてくれる存在が欲しくなる」
類は少し照れたように視線を泳がせ、続けた。
「言葉を探さなくていい時間って、必要だろ」
その言葉に、香織はハッとした。
発散したかったのは、大声で騒ぐことじゃない。この張り詰めた気持ちを緩めてもらえる時間だったのだ。
沈黙が怖くない。会話を探さなくてもいい。沈黙すら心地よい。
この爆音と煙の充満するスナックの片隅で、香織は自分だけの「心が安らぐ場所」を見つけていた。
(そっか……言葉を選ぶのが、不器用なだけだったんだ……)
「……はい。今、すごく楽です」
香織がほっと目を細めて微笑むと、類はどこか安心したように、深く頷いた。
その頃——カウンターの反対側では。
「ママ、もう一杯! ほらママも飲んで!」
「ちょっと拓海くん、ペース早すぎよ!」
派手に盛り上がる拓海は、マイクを握りしめながら、グラスの反射越しにカウンター端の二人を盗み見ていた。
(……よし。肩の力が抜けたな)
拓海は心の中で、誰にも気づかれないように深く息を吐いた。
数日前、社員寮の隣の部屋から、類が深刻な顔でやって来た時のことが頭をよぎる。
クローバーの香織ちゃんに一目惚れしたものの、意識しすぎて声をかけることすらできず、実習で疲れ切った彼女を前に固まっていたポンコツな同期。
『……すごく疲れてるみたいなんだ。でも俺、なんて言えばいいか分からない。邪魔をしたくないんだ……』
うつむいて頭を抱える類を見て、拓海は呆れつつも思ったのだ。
不器用なお前が一番輝くのは、俺みたいな「うるさいノイズ」がある場所だ、と。
香織ちゃんを強引に連れ出したのも、チャラ男を演じたのも。
発散したくてウズウズしていた香織ちゃんに「拓海の爆音は胃もたれする」と思わせ、自然と「静かな類の隣」へ逃げ込ませるため。
そして、あえて蘭ママとばかり話していたのは——初対面同然でガチガチだった二人から、店の視線とプレッシャーをすべて俺が引き受けるためだ。
俺というド派手な陰影をつくることで、類の「静かな優しさ」というオアシスを際立たせる。
(大成功じゃねぇか、バカ野郎)
拓海は画面の歌詞を追いながら、ニヤリと口元を緩めた。
「ママ! 次はデュエット行こう、デュエット!」
「はいはい、お調子者ねぇ」
蘭ママが呆れ顔で笑う。ママだって百戦錬磨だ。拓海が何を企んでこの席を作ったのか、とっくに察して合わせてくれていた。
◇
「ママ、お会計! お釣りは要らないよ!」
店を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
「拓海さん、ごちそうさでした。……せっかく誘っていただいたのに、全然お話しできませんでしたね」
香織が少し苦笑い混じりに言うと、拓海はひらひらと手を振った。
「いいのいいの! 俺はママとイチャイチャできて大満足だから! じゃ、俺はもう一軒寄ってくから、類、香織ちゃんを駅まで送ってやって!」
「……ああ」
拓海は二人に背を向け、夜の街へと歩き出す。
振り返ることはしなかった。
けれど、背後から聞こえる足音を感じ取っていた。
冷え込む夜道。類は何も言わず、19歳の香織の小さな歩幅にぴったりと合わせて、ゆっくりと隣を歩き始めている。
「……類さん」
「ん?」
「今日、誘ってもらえて……類さんと話せて、よかったです」
「……俺もだ」
二人の間に漂う、静かで優しい沈黙。
並んで歩く二人の手が、夜風の中でそっと重なるのが見えた。
「たく、世話の焼ける同期だぜ」
拓海はポケットに手を突っ込み、夜空に向かって白く温かい息を吐き出した。
明日、寮の隣の部屋のドアを叩いて、奢りで缶ビールを出させるのが今から楽しみでならなかった。




