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サフランのショータイム

ど真ん中のテーブル席に座る田中一郎先輩の前に、香織は優しくハーブティーを置いた。


カウンター内では心理学科の美緒先輩がハラハラと見守り、カウンター席では物理学科の津島翔先輩が相変わらずのんきに本を開いている。少し離れたテーブル席では、同じ物理学科の三木俊先輩と水野遥先輩が美しいシンクロ率でニヤニヤとプロファイルを始めていた。


そして、別のテーブル席には、香織に招集された幼稚園科の1年トリオ――あみ、ゆい、ひまりが、固唾を呑んで中央を凝視している。


あみ:「(小声で)ちょっと、ひまり。あんた失恋の傷癒えてないのに、この筋肉の暴走エントロピー耐えられる?」


ひまり:「(生気のない声で)……ううん、逆にこれくらい劇薬のほうがリハビリになる。香織の魔王っぷり、しっかり目に焼き付けるわ」


ゆい:「女子学生の多い幼稚園科の英語の授業を狙って再受講しにきた体育科の先輩が、まさか香織っていうラスボスに突撃するなんて、最高のエンタメだよね(笑)」


店内のど真ん中では、白いランニングシャツの田中先輩が、背筋をピンと伸ばして直立不動(着席状態)のまま汗をぬぐっていた。


香織はいつも通りのほわんとした、しかしどこかすべてを見透かしたような笑顔で、ストレートに切り出した。


「田中先輩。昨日クローバーでも言いましたけど、やっぱり私、先輩とお付き合いすることはできません。ごめんなさい」


「ッ……!!」


田中先輩の大胸筋が、ショックでピクッと跳ね上がる。その様子を、テーブル席の俊先輩が「初手で容赦ないな」と楽しそうにコーヒーをすすりながら見ている。


しかし、香織はそこで突き放さず、小首を傾げて小悪魔的に微笑んだ。


「でも、お話だけは聞くって約束しましたよね。……田中先輩、私のどこが好きなんですか? 聞かせてください」


直球すぎる香織の逆質問。


「私のどこが好きなの」という、武道における難解な極意を突きつけられた田中先輩は、ランニングシャツの胸元をはだけんばかりに息を荒くし、脳細胞の全筋肉をフル稼働させて考え込み始めた。


「じ、自分はッ……!!」


田中先輩は、サフランの繊細な天井を見上げ、まるで空手の型を思い出すかのように大真面目な顔で叫んだ!


「山下さんがッ、英語の再受講の授業でッ、周りの女子学生たちが自分の筋肉を見てヒソヒソ笑う中ッ! 貴女だけはッ、一切怯まず、一切笑わずッ、自分が発音記号を間違えた時に『押忍! 惜しいです先輩!』と、武道精神に溢れたフォローをしてくれたからですッッ!!」


店内に響き渡る「押忍!」の声。


カウンターの奥で美緒先輩が「ぷっ……!」と吹き出し、あみとゆいは机を叩いて笑いを堪えている。


香織は「あはは、あの時のことですか」と、困ったように、でも嬉しそうに笑った。


「あの授業、男子の先輩たちがたくさん再受講にきてましたもんね。女の子目当てで幼稚園科のコマを狙ってくる人が多いって、先輩たちから聞いてました。――あ、そういえば翔先輩も受けていましたよね?」


翔、美緒、一郎が一斉に「うぐッ……!!」と声を詰まらせる。


美緒:「翔、何やってるの?」


翔:「……いや、俺はただ単位を取りやすいかなと思って。下心は無いよ。実際、ほとんど授業出てないし」


美緒:「よけいにダメでしょ!」


部外者の痴話喧嘩はさておき、核心を突かれ、田中先輩の太い首がボッと赤くなる。


「自分もッ、確かに最初は下心があったことを認めますッ! ですが、山下さんのあの凛とした姿勢に、自分の空手道精神が一本取られたのですッッ!!」


あまりにもピュアでクソ真面目な筋肉の叫びに、サフランの観客席(物理学科トリオと幼稚園科トリオ)からは、もはや感動すら混じったニヤニヤが止まらないのだった。


「田中先輩、すっごく熱い気持ちは伝わりました。でも先輩、ちょっと肩の力が入りすぎです。そんなに筋肉を緊張させてたら、お話も頭に入らないですよ?」


「むッ……! 確かに、自分は今、最大緊張状態にありますッ!」


「ですよね。じゃあ、幼稚園科の基本の型でリラックスしましょう。はい、先輩、私の真似してくださいね。……とんとんとん、ひげじいさん♪」


香織がほわんとした笑顔で、顎の前に小さな拳を持っていく。


それを見たテーブル席の女子学生トリオ(あみ、ゆい、ひまり)は「嘘でしょ!?」と口を手で覆った。


「お、押忍! 幼児教育の基本型ッ!! とんとんとん、ひげじいさんッッ!!!」


田中先輩は、ランニングシャツから覗く丸太のような太い腕を震わせながら、大真面目に顎の前に拳を突き出した。キレが良すぎてピシッと空気の破裂音がしそうだ。


「はい、次はこぶじいさん♪」


「こぶじいさんッッ!!!(頬を思い切り圧迫)」


「最後は手を上に上げて、キラキラキラ〜♪」


「キラキラキラァァァーーーッッ!!!(大胸筋を激しく躍動)」


サフランのど真ん中で、白いランニングシャツの空手部3年が完璧に手懐けられている。そのあまりのシュールさに、あみとゆいは机に突っ伏して震え、失恋したてのひまりですら「……何これ、最高のヒーリング効果なんだけど」と目が輝きを取り戻していた。


隣の席から、理学部の俊先輩が「おい遥、あれ物理的にどういう現象だ?」と耳打ちし、遥先輩は「脳のシナプスが香織さんの声の周波数に完全同期ジャックされたのね。哀れな被験者だわ」と冷徹に分析している。


カウンター内では、美緒先輩が頭を抱えていた。


「もう、香織ちゃん完全に遊んでるじゃない……! 早くお断りしなさいよ!」


ひとしきり『手遊び』で一郎先輩の全筋肉を弛緩させた香織は、ハーブティーをズズッとすすり、本題へと切り込んだ。


「ありがと、田中先輩。おかげでリラックスできました。……でもね、やっぱり先輩とは付き合えないんです。だって私、**『大好きな人』**がもういるんですよ」


その瞬間、サフランの空気がピキッと凍りついた。


観客席の全員が「え!?」と身を乗り出す。中でも一番過剰に反応したのは、カウンター内の美緒先輩だった。


(だ、大好きな人って……まさか、翔のことぉぉぉーーーッッ!?)


一瞬で顔を真っ赤に沸騰させた美緒先輩は、隣の席で「へえ、ナポリタン美味しい」とのんきにフォークを動かしている翔先輩の横顔を見て、心臓が熱力学的に爆発しそうになっていた。私の知らないうちに香織ちゃんと翔が急接近!? いや、でも確かに翔の夜のカクテルは18歳には刺激が強すぎたのかも……と、脳内暴走エントロピーが限界突破する。


田中先輩もまた、ガーンと雷に打たれたような顔で絶望していた。


「そ、その『大好きな人』とはッ、どこのどいつですかッ!? 自分より筋力がある男なのですかッ!?」


「あ、その人なら、今ちょうど来たみたいですよ」


香織が入り口に視線を向ける。


チリーン、とドアベルが鳴り、息を切らせた男がサフランに滑り込んできた。


「はぁ、はぁ、ごめん香織! 遅くなった!」


そこに立っていたのは、小綺麗にシャツを着こなした宮本拓海(25歳)。この店の常連であり、クローバーのマスターの友人である。


拓海は薄い胸を張り、一郎先輩の前に堂々と立ちはだかった。


「……君が香織に言い寄る体育科の男かね? 申し訳ないが、彼女は僕の彼女なんだ。今日だって彼女のピンチと聞いて、わざわざ会社に有給休暇を申請して駆けつけたんだからねッ!」


ドヤ顔で言い放った拓海先輩。しかし、そのポーズを決めた瞬間、ポケットから『カプセルトイの、やたらキラキラしたおもちゃの指輪』がコトと床に落ちた。


コロッ、コロコロ……と、田中先輩の足元へ転がっていくプラスチック製のピンクの指輪。


店内は、一瞬の静寂ののち、凄まじい「ずっこけ感」に包まれた。


あみ:「え、何あれ……。カプセルトイの指輪? 25歳の社会人がポケットに直で仕込んできたの……?」


ゆい:「彼女用の小道具として、わざわざガチャガチャで回してきたんだ。準備が涙ぐましすぎて、逆に鳥肌立つんだけど(笑)」


カウンターの美緒先輩は「な、なんだ、拓海さんか……良かったぁ……」と、別の意味で腰を抜かすようにカウンターに手をついて激しく安堵した。


田中先輩は、床に落ちたおもちゃの指輪と、拓海の細い腕をじっと見比べ、フッと哀れみの笑みを浮かべた。


「……なるほど。己の拳ではなく、ガチャガチャという『現代社会の流通システム』を駆使し、わずか数百円でエンゲージの形(偽)を整える、その合理的かつ大人の立ち回り……! 己の肉体のみに頼る自分の、完敗ですッッ!!」


「え、あ、そこを評価して納得してくれた!?」


拓海が拍子抜けした声を上げる中、田中先輩は香織に向かって直角の礼をした。


「山下さん! 素晴らしい殿方をお持ちだ! 自分はこれにて身を引きますッ! 押忍ッッ!!」


一郎先輩はやりきった顔で、入ってきた時と同じ風圧と共に、ランニングシャツの背中を輝かせてサフランを去っていった。


残されたのは、有休を使ってまで盛大に滑り倒した拓海先輩と、お腹を抱えて爆笑する女子学生たち。


香織はハーブティーを飲み干し、拓海に向かって天使の笑顔を向けた。


「拓海さん、ナイス間抜けっぷりでした♪ 有休の無駄遣い、今夜のクローバーでマスターに報告しておきますね!」


「ちょっと香織ちゃん!? 僕は君を助けに……いや、マスターに報告はマジで勘弁して! それより交換条件! 有休まで取って参戦したんだから、そこの幼稚園科の可愛い女子学生たちとの合コン、絶対にセッティングよろしくねッ!!」


拓海が必死に指差した先で、あみとゆいは顔を見合わせてニヤリと笑い、ひまりが代表して声を弾ませた。


「え〜! 拓海さんじゃなくて、拓海さんの周りの頼りになる社会人のイケメン紹介して(合コンして)くれるなら、考えてあげてもいいですよー?」


「えっ、僕じゃなくて僕の引き立て役(友人)目当て!? 僕は有休まで取ったのに!?」


ガーンとショックを受ける拓海を置き去りにして、サフランには女子学生たちの楽しげな笑い声が響き渡る。


こうして、サフランを舞台にした筋肉の一大エンターテインメントは、一人の哀れな有休研究員を小気味よくおもちゃにして、大盛況のまま幕を閉じるのであった。



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