大きな園児の取説
『洋風居酒屋クローバー』には、料理よりも存在感のある“名物”がいる。
――香織。
18歳にして、疲れた大人を三秒で蘇生させる天性の人たらしだ。
「お待たせしました、タコの唐揚げとウーロンハイです!」
香織はテーブル席へ向かい、ジョッキと皿をテンポよく並べる。座っているのは、仕事帰りで魂が抜けかけているおじさま。ただのウェイトレスとして注文を運んだだけ……のはずなのに、ここからがこの子の本領だ。
「今日も遅くまでお疲れ様です。揚げたての唐揚げ、疲れに一番効きますからね。ごゆっくりどうぞ」
押し付けがましくない、絶妙な“距離感の笑顔”。それだけで、おじさまの死んだ魚みたいな目が、パァッと蘇生した。
「お、おう、ありがとう……! よし、明日も頑張るかぁ!」
……単純。いや、単純すぎるわ、成人男性。カウンターでカシスオレンジをすする私の隣に、香織が戻ってくる。
そのさらに奥の席では、クローバーとサフランの共通の常連客の宮本拓海さんがニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「ちょっと香織。あんた、また席の空気を浄化してきたわね。何その、疲れたサラリーマンを三秒で蘇生させる呪文」
「えへへ、呪文なんて使ってないですよー。ネクタイ緩めてため息ついてたから、一番言ってほしい言葉を置いてきただけです」
「さすが香織ちゃん、おじさんの転がし方を熟知してるねぇ」
奥から拓海さんがビールジョッキを片手に茶々を入れてくる。
「失礼な、拓海さん。ちゃんとお客さんとして敬ってますよ? でも、おじさまたちって、ちょっと褒めたり『頑張ってますね』って言うだけで、すっごく良い笑顔で『はーい!』って返してくれるから、実習先とあんまり変わらないかもです」
「やっぱり園児扱いじゃないの!」
ケラケラ笑う香織。この恐るべき18歳は、自分が“全世代の男にウケる”性質を完全に理解したうえで、クローバーのフロアを完璧にコントロールしている。
そこへ、今度は大学生らしい男子4人組がわいわい騒ぎながら手を挙げた。
「すみませーん! 唐揚げ二つとポテトと、あとジントニック四つで!」
香織は「はーい!」と軽い返事で向かっていく。お待たせしましたー、と彼女がテーブルにグラスを並べると、男子たちが一斉に「うお、かわいい……」と小声でざわついた。聞こえてるはずなのに、香織は気づかないふりをする。いや、絶対気づいてる。
「今日、ゼミの発表だったんですか? みなさん、ちょっとお疲れ顔ですよー」
「え、わかるんですか?」
「わかりますよー。資料作った人はこの人で、発表したのはこの人で、緊張してたのはこの人で……」
香織が指さすたび、男子たちが「なんで!?」「当たりすぎて怖い!」と騒ぎ出す。
「だって、みなさんの座り方と、さっきの声のトーンで全部わかりますもん。発表終わりの人って、肩の力が抜けてるんですよね」
「すげぇ……占い師?」
「違いますよー。ただの観察魔です!」
香織が笑うと、男子たちのテンションが一気に上がった。
「よし、もう一杯飲むか! 香織ちゃん、ジントニック追加で!」
「はーい、すぐ持ってきますね!」
軽快に戻ってきた香織の横顔を、私は呆れ半分で見つめる。おじさまだけじゃなく、若い男子にも初手でこれか。
「美緒さん、若い男の子って、褒められるとすぐ元気になりますよね。園児と同じです」
「やっぱり園児扱いじゃないの!」
「まあ、若い男なんてみんなそんなもんだよ、美緒ちゃん」
拓海さんも声をかけて来た。
香織は本当に、相手の“今ほしい言葉”を見抜く。年齢も性別も関係なく。
「すみませーん! チューハイ二つと、チーズ盛り合わせお願いしまーす!」
今度は店の奥から、ギャル風の女の子二人組が声を上げた。金髪にピンクメッシュの子と、まつげバサバサの子。声が大きいのに、どこか疲れが滲んでいる。
「はーい!」と香織が向かう。テーブルに注文を並べると、ギャルの片方が「あ、かわい……」と小声でつぶやいた。男子学生と違って、こちらは“素直に褒めるのは恥かしい”タイプだ。
香織はそこもしっかり察して、聞こえないふりをする。距離感の調整が本当に憎らしいほどうまい。
「今日、遊びに来たんですか? それともお仕事終わり?」
「え、なんでわかんの?」
「お二人とも、ネイルが新しくてテンション上がってるのに、歩き方がちょっと疲れてたから……『仕事終わりに気分転換』って感じかなって」
「え、当たってんだけど! やば!」
「ネイル可愛いですね。色違いで合わせてるの、すっごく似合ってますよ」
「ちょ、やめて、褒められんの慣れてないんだけど……!」
ギャル二人が照れながら笑う。男子学生のときとは違う“褒め方の角度”を使っている。
「今日のチューハイ、ちょっと甘めにしてもらってます。疲れてる時って、甘いのが一番元気出るんですよね」
「わかる〜! 甘いの飲みたかった!」
「ですよね。お仕事、頑張りましたね」
その一言で、ギャル二人の肩の力がふっと抜けたのが、遠目からでもわかった。
「……なんか、癒されたんだけど」
「ね。今日、上司にめっちゃ怒られてさ……」
「それは大変でしたね。でも、ちゃんと乗り切ったんですよね。偉いです」
「ちょ、泣くって……!」
ギャル二人が笑いながら目を潤ませる。香織は、若い女性に対しては“褒めすぎず、寄り添いすぎず”の絶妙な距離感を保つ。おじさまや男子学生とはまったく違う、同性としての最適なアプローチだ。
「チューハイ追加あったら、いつでも呼んでくださいねー!」
「はーい! 香織ちゃん、好きー!」
「えへへ、ありがとうございます!」
スキップでもしそうな勢いで、香織が戻ってくる。
「美緒さん、ギャルのお姉さんたちって、褒められると照れながら喜ぶから可愛いですよね。園児と同じです」
「やっぱり園児扱いじゃないの!!」
心理学を4年間学んできた私だけど、この子の実践的な行動心理学の前には、ぐうの音も出ない。悔しいけれど完璧なコミュニケーション能力だ。
「美緒さんこそ心理学科なんですから、翔先輩みたいな“言葉のキャッチボールが必要なタイプ”、得意なんじゃないですか?」
不意に、カウンターの奥でいつものんきにグラスを拭いている男の名前を出され、私はカシスオレンジを喉に詰まらせそうになった。
「む、無理よ! あいつは園児以下よ!」
一瞬で冷静さを失った私の声が、少しだけ上ずり、顔に熱が集まる。
「心理学的に計算したセリフを投げても、全部『へえ、美緒、今日のご飯なに?』って返してくるんだから! 私の誘導尋問も、好意のサインも、全部宇宙の彼方にスルーされるのよ!?」
「あはは! 翔先輩、ストライクゾーンが宇宙ですね!」
「あはは、さすが津島くんだ。あいつの天然は、同じ『1年留年組』の僕でも理解の範疇を超えてるからね」
拓海さんがお腹を抱えて大爆笑している。本当に、カウンターのこちら側はいい気なものだ。
「香織ちゃん、生ビール追加ねー!」
「はーい、今行きまーす!」
呼ばれた瞬間、また彼女は軽快にフロアへ走っていった。
教育実習を終えて、それなりに「大人の階段を上った」つもりでいた私だけど。
あの達観した18歳の完璧な掌の上で、私も、あの朴念仁の津島くんも、そしてクローバーのお客さんたちも、みんなまとめて『可愛い園児』として転がされているだけなのかもしれない。
悔しいけれど、どうにも敵いそうにないわね。
そして、新登場の宮本拓海は今後主要キャラとして活躍していくので有った。




