恋の臨界点
週末の夜、洋風居酒屋『クローバー』の厨房の入り口で、私――山下香織――はトレイを胸に抱えたままニヤニヤしていた。
すべては私の計画通り。先日サフランと合コン会場で仕掛けた壮大なマッチポンプ作戦が、ここ『クローバー』で開演中というわけだ。
カウンターの向こうでは、蝶ネクタイにベスト姿の翔先輩が、いつも通りの冴えない、どこか眠たげなオーラを纏ってグラスを拭いている。
その前に座っているのは、私のクラスメイトである教育学部のゆいとあみ。
先日、私が仕組んだ合コンで翔先輩にすっかりお熱になった二人は、さっそく週末のバイト先に突撃してきたのだ。
ゆいとあみの前には、すでに翔先輩がお任せで作った2種類のノンアルコールカクテルが置かれている。
ゆいの前には、ピンクと白のグラデーションが可愛らしい、ストロベリーとミルクベースのカクテル。
「はい、どうぞ。『プレ・エントロピー』です」
あみの前には、爽やかなブルーシロップにトニックウォーターを注ぎ、レモンを添えた夏の夜空のようなカクテル。
「こちらは『シュレディンガーの恋』になります」
「わあ、名前までなんかおしゃれ……!」
「綺麗……! 翔くん、センス良すぎ!」
二人がノンアルカクテルを片手にキャッキャと盛り上がり、ゆいがカウンター越しに「ねえねえ、普段は何の勉強してるの?」と翔先輩にベタベタと絡みついている。
合コンの時は死んだ魚の目をしてたのに、夜の先輩はなんだか雰囲気が違って格好よく見えたらしい。
(さあ……極上のエンタメ、ここからが本番ですよ!)
私はポケットの中でスマホを握りしめた。
数分前、サフランにいるはずの美緒先輩に『大変です! 翔先輩が合コンの女の子たちに迫られて、今にもお持ち帰りされそうです!』と、大げさな嘘のラインを送っておいたのだ。
ガシャリ、と。
店の自動ドアが開くと同時に、店内に凄みのある冷気が流れ込んだような錯覚を覚えた。
そこに立っていたのは、文学部心理学科4年、学園のマドンナこと木崎美緒先輩。
私服のタイトなニットにロングスカートという、相変わらず文句のつけようがない美女オーラを放っている。
サフランから大急ぎで駆けつけてきたはずなのに、完璧に涼しい顔を装っている。
が、その目だけには、ありありと「般若」のような殺気が宿っていた。
「……ええ、ちょっと近くを通りかかったから。香織ちゃん、お疲れ様」
美緒先輩は極めて上品に微笑んでみせたが、その目は一切笑っておらず、鋭い視線はすでにカウンターの二人をロックオンしている。
「美緒さん、いらっしゃい。空いてるカウンターへどうぞ」
翔先輩がいつものローテンションで、のんきに声をかける。
「ええ、ありがとう、翔くん。じゃあ……そこの、お姉さんたちの『お隣』、失礼するわね」
美緒先輩はゆいとあみのすぐ隣のカウンター席へ、吸い込まれるように着席した。
あまりの美貌と、そこから放たれる凄みのある威圧感に、ゆいたちは思わず身体を硬くする。
美緒先輩は表面上は完璧な微笑みを浮かべているけれど、背後には間違いなく黒いオーラが渦巻いていた。
「ご注文、何にしますか?」
翔先輩が尋ねると、美緒先輩は少し頬を染め、上目遣いで翔先輩の顔をじっと見つめた。
高飛車なマドンナとは思えないほど、その仕草は恋する乙女そのものだ。
「……津島くんが、私のために作ってくれるものなら、何でもいいわ。お任せするわね」
(うわぁ、美緒先輩わかりやすっ! 翔先輩に気が有るの丸出しじゃないですか!)
私は厨房の影で、必死に笑いを噛み殺した。
「了解しました」
翔先輩は、モデル顔負けの完璧なビジュアルで、破壊力抜群の爽やかな笑顔を浮かべた。
昼間の冴えない姿からは想像もつかない、カウンター越しの特別仕様。
ゆいたちだけでなく、美緒先輩も一瞬で顔を真っ赤にしてフリーズしている。
カシャカシャと、翔先輩が手際よくシェイカーを振る。
成人している美緒先輩の前に差し出されたのは――鮮やかな深紅のクランベリーリキュールに、ほんの少しのジンジャーエールを合わせた、まるで大人の情熱を表したようなルビー色のカクテルだった。
「美緒さんにはこれ。『熱力学的に臨界点』です。
酸味と炭酸の比率が一番綺麗に混ざる配合にしました」
美緒先輩は自分のカクテルを愛おしそうに見つめ、小さな声で
「……私のために、こんな素敵な色を……」
と呟き、嬉しさを隠せない様子でカクテルを一口啜っている。
完全に翔先輩の世界に没頭している姉御の姿に、私は内心でガッツポーズを決めた。
しかし、その様子を横目で見ていたゆいとあみの表情が、徐々に引きつり始める。
あの学園のマドンナである木崎先輩が、熱い視線を送り、あんなにも分かりやすく好意を寄せている相手。
(プレ・エントロピーに、シュレディンガーの恋……。
名前はオシャレだけど、それって全部『不確定』とか『乱雑になる前』って意味じゃない!?
私たちへのカクテルは、ただの実験(お遊び)ってこと!?)
(そして木崎先輩には『臨界点』……!
二人の関係はもう、引き返せないところまで熱く沸騰してるってことなのね……!? うちら、完全に場違いじゃん!)
当の翔先輩は「熱力学的にこの配合がベストですから」などと、相変わらずピントのズレたことをのんきに呟いている。
けれど、それすらも彼女たちの目には、マドンナの激しい情熱を涼しい顔で受け流す、底知れないカリスマオーラに見えていた。
(えっ……あの木崎先輩をあんなに虜にして、しかもそれをあんな余裕の態度で……!?)
(翔先輩、昼間はあんなに冴えないのに、夜はマドンナを侍らせるレベルの超大物イケメンだったんだ……!)
ゆいたちの脳内で、翔先輩の格付けがとんでもない領域へと跳ね上がっていく。
二人は美緒先輩の無言の圧力と、勝手に勘違いした翔先輩のイケメンぶりに完全に気圧されてしまった。
「あ, あの! 私たち、もう終バスの時間なので、これで失礼します!!」
ゆいが青ざめた顔で立ち上がり、あみも「ごちそうさまでした!」と伝票をひったくるように持って、二人は逃げるようにレジへと向かって行った。
「あら、もう帰っちゃうの? 残念だわ」
美緒先輩は上品に手を振りながら、ライバルが去ったことに露骨にホッとした表情を浮かべ、嬉しそうにカクテルを飲み進めている。
嵐が去った後のカウンター。
残された翔先輩は、何が起きたのかさっぱり分からないといった様子で首を傾げていた。
「なんか、急に怒って帰っちゃったな。……あ、美緒さん。お腹空いてるなら、ナポリタンでも注文しようか? ここのも美味しいよ。美緒さんのナポリタンには敵わないかもしれないけど」
「……っ!! つ、注文しなさいよバカ!! そ、そこまで言うなら、ここのナポリタンが私の足元に及ぶレベルかどうか、私が直々に毒見してあげるわよっ!!」
美緒先輩は顔を一瞬で真っ赤に沸騰させ、ツンデレ全開でカウンターを叩いた。
学生バイトが店のプロの料理人に喧嘩を売っている。完全にパニックに陥っている。
だが、翔先輩の「(自分の作る)ナポリタンを意識してくれている」という無自覚な一言に、脳内で「え、私のことそんなに考えてくれてるの……!?」と都合よく脳内変換して照れ隠しに必死になっているのは一目瞭然だった。
あまりの破壊力に、ツンで隠しきれないデレが顔面からダダ漏れである。
「了解。じゃあ、ナポリタン一丁オーダー入れるね」
翔先輩はどこまでもマイペースに、手元の小さな伝票にサラサラとペンを走らせ、カウンターの端へ置いた。
私はその伝票をサッと回収し、厨房へと通しながら、お腹を抱えて笑いをこらえていた。
(あはは! 美緒先輩、完全に私のラインに踊らされて自爆してる! ゆいたちも勘違いして退散したし、今夜の特大花火は大成功ですね♪)
クローバーの夜は、またもナポリタンによって、コミカルな熱量を増大させていくのだった。




