SAY SORRY
──雨の降る、夜でした。
ガラス窓を不規則に叩く雨音が、店内に流れる静かなジャズの旋律と重なり合っていた。
週末の深い夜、洋風居酒屋「クローバー」のカウンターの奥は、独特の静寂に支配されている。薄暗い照明が、棚に並んだ幾つものボトルに琥珀色やルビー色の光を宿らせ、磨き上げられた漆黒の木目テーブルにそれを落としていた。
津島翔は、カウンターの中で静かに白いトーションを動かしていた。
薄手のグラスを光にかざし、曇り一つないことを確認しては、定位置へと戻していく。その一連の動作には、淀みも、無駄も、一切の迷いもない。背筋をすっと伸ばし、ただ手元と空間の調和だけを見つめているその佇まいは、一級品のバーテンダーのそれだった。
カラン、と静かにドアのチャイムが鳴った。
吹き込んできた冷たい雨の匂いとともに、一人の男性客が滑り込んでくる。**よく見知った顔のその男は、**傘を丁寧に畳む余裕すらない様子で、濡れた上着を気にする風でもなく、カウンターの端の席へと腰を下ろした。
男は席に着くなり、深く、重いため息をついた。それから大きな手を硬く組み、じっと手元を見つめ始める。
(……喧嘩したな)
翔は視線をあからさまに向けることなく、ただグラスを拭く手を一定のリズムで動かしながら、男のわずかな気配の変化を捉えていた。
男の指先は、何度もジャケットのポケットへと伸び、そのたびに躊躇するように引き戻される。しかし、ついに耐えかねたようにスマートフォンを取り出すと、バックライトの明かりが男の険しい表情を白く浮かび上がらせた。画面をスクロールし、何かを確認し、そして既読のつかないトーク画面を見て、さらに深く眉を寄せる。
男が抱えている、焦燥、悔恨、そして素直になれないプライド。言葉にされずとも、その空間に漂う空気だけで、男の心の形は十全に伝わってきた。
翔は何も言わない。客の領域に無粋に踏み込むような真似は決してしない。それがこの夜の空間における、彼の流儀だった。ただ、目の前の男が今、どのような乾きを抱えているのか。その心の機微だけを、冷徹なまでに正確に透かしていく。
翔はおもむろにグラスを置き、背後のボトルへと手を伸ばした。
氷をピックで砕く、小気味よい音が店内に響く。硬く透明な氷の結晶がグラスに触れ、涼やかな音を立てる。男はその音に弾かれたように、ようやくスマートフォンから目を離し、翔の手元へと視線を移した。
翔の指先が、流れるような動作で複数のボトルを傾けていく。
メジャーカップに注がれる液体の正確さ。ミキシンググラスにバースプーンを滑らせる、確かな手首のスナップ。
彼が選んだのは、芯のある苦味を持ったベースだった。しかし、そこにただ苦さを重ねるのではなく、ほんの少しだけ、頑なな心を内側から解きほぐすような、仄かな甘さを層のように足していく。丁寧にステアされた液体が、美しいグラデーションを描きながら、クリスタルグラスへと注がれた。
コースターが静かに置かれ、深い色彩を湛えた一杯が、男の前へと滑り出す。
「……頼んでないが」
男が掠れた声で呟いた。翔はただ、感情の起伏を感じさせない、酷く落ち着いた声で静かに答える。
「当店からの、雨の日のサービスです」
男は怪訝そうにグラスを見つめ、やがて誘われるようにそれを口にした。一口、ゆっくりと喉に流し込む。苦味が男の表情をわずかに引き締め、その直後に広がる微かな甘みが、男の強張った肩の力をふっと抜いていくのが分かった。
男はグラスを見つめたまま、ぽつりと言葉を漏らした。
「これ……なんて名前?」
翔はトーションを綺麗に折り畳み、男の視線を真っ向から受け止めながら、そのカクテルの名を告げた。
「“Say Sorry”です」
男は一瞬、目を見開いた。自分が抱えている、誰にも言えない傲慢さと、引き返せなくなっていた意地。そのすべてをこの若きバーテンダーに見透かされていたことに気づき、男は自嘲気味に、小さく苦笑した。
「……そうか。ごめんね、か」
男はそう呟くと、残りの液体を一気に煽り、コースターの上に紙幣を置いた。先ほどまでの迷いは消え、その足取りには確かな決意が宿っていた。「ごちそうさま」と言い残し、男は逃げるように店を出ていった。
再び、雨の音だけが店を包み込む。翔は何も言わず、男の去ったグラスを下げ、再び静かに磨き始めた。
◇
激しい雨の中、先ほどの男性が戻ってきた。しかし今度は一人ではない。びしょ濡れになりながらも、嬉しそうに男の手を固く握りしめた、一人の女性が隣にいた。
男はカウンターの中の翔を見つけると、悪戯が成功した子どものような顔で小さく笑い、弾んだ声で言った。
「おかげさまで、ちゃんと『ごめん』って言えました!」
翔は二人の姿を見つめ、余計な言葉は一切かけず、ただほんの少しだけ目元を和らげて、静かに一礼した。
「良かったです」
男は「お祝いに」と少し照れくさそうに笑い、今度は自分の言葉で堂々と注文を口にした。
「彼女と乾杯したいんだ。スパークリングワインを、グラスで二つ」
嬉しそうに寄り添う二人をそれ以上追うこともなく、翔はまたカウンターの奥へと戻る。
彼らの不器用な結末を見届けた青年は、何も語らない。ただ、冷えたボトルをそっと手にとり、二つの細身なフルートグラスへと、祝福の泡を静かに注ぎ込み始めた。
窓の外では、世界を洗い流すかのように、まだ静かに雨が降り続いていた。




