バームクーヘン
カラン、と本日何度目かの扉の音が響く。
「……ちわ」
噂をすれば影、とはよく言ったものだ。
寝癖をつけたままの翔が、いつも通りの死んだ魚のような目でフラリと入ってきた。
その瞬間、店内の空気が一気に「いつものサフラン」へと完全固定される。
美緒先輩は一瞬でプロの看板娘の顔(ただし頬は一気に赤くなった)に戻り、声を弾ませた。
「あ、翔くん! いらっしゃい!」
翔はテーブル席の女子会エリアを一瞥し、いつものカウンター席へと迷わず足を向けた。
そして、俺の隣の席にどさりと腰を下ろす。
カウンターの中のエプロン姿の美緒先輩をじっと見つめ、少しだけ鼻を動かした。
「腹減った。ナポリタン、大盛りで」
「はい喜んでぇ!! すぐ作るから待っててね翔くん!!」
ガタゴトと凄まじい音を立ててフライパンを準備し始める美緒先輩。
その後ろ姿からは、物理的なオーラが立ち上っているのが見える。
やがて、「はい、召し上がれ」と目の前に差し出された出来立てのナポリタンに、翔は一気にフォークを伸ばした。
「しばらく食べていなかったから、禁断症状一歩手前だったよ」
「っ……!?」
美緒先輩の顔が一気に赤くなる。
絶対に脳内で「私に会えなくて禁断症状一歩手前だった」と都合よく変換している顔だ。
当の鈍感男はそんな事いっさい構わず、幸せそうにナポリタンを頬張っている。
そんな二人を見て、香織がイタズラっぽくテーブル席から声をかけた。
「美緒さん、今日は凄く機嫌がいいみたい。翔先輩、あのマスターからの紙袋に何か仕込んでました?」
ひまりも興味津々でコクコクと頷く。
「そうです、私、気になります……! どんな素敵なメッセージを隠してたんですか?」
振られた当の本人である翔は、めんどくさそうに
「……別に。ただのカードと、お菓子」
とぶっきらぼうに答えた。
すかさず美緒先輩が、カウンター越しに割って入る。
「そうなのよ! 小さなカードが入っててね、そこに、たった一言『お疲れ様』って書いてあったの! あの翔くんが、わざわざ自分の手で紙に書いてくれたのよ! これって実質『俺のために早く帰ってきてくれてお疲れ様、愛してるよ』っていうメッセージと同義じゃないの!?」
美緒先輩の妄想はもはや誰にも止められない。
香織はそっとカウンターの俺の方を振り返り、引きつった笑みを浮かべた。
「翔先輩……。美緒先輩、ただの『お疲れ様』でそこまで飛躍できるの凄すぎます」
女子たちが首を傾げる中、俺は小さくため息をつきながらニヤリと笑った。
「おいおい。お前ら、あの紙袋の『底』に、エプロンに隠されるようにして何が入ってたか、ちゃんと聞いてないだろ」
「え?」
香織とひまりがパッと俺を見る。
「翔が渡したあの紙袋の底には、メッセージカードと一緒に、とある焼き菓子が入ってたんだよ。あのLINEの質問への答えとしてな。……有名な洋菓子店の、バームクーヘンが」
「バームクーヘン……? えっ、やっぱり意味不明。ただのお土産じゃないですか」
香織が眉をひそめて首を傾げる。
あのLINEのやり取りを知らない香織たちからすれば、ただの美味しいお土産にしか見えないのだろう。
すると、それまで大人しく聞いていたひまりが、ぽつりと小さな声を漏らした。
「あの……バームクーヘンって、ドイツ語で『木のケーキ』ですよね。年輪みたいに層が重なっているから……『幸せが末永く重なりますように』とか、『二人の関係が長く続きますように』っていう意味が込められてるって、本で読んだことがあります……」
「「「…………っ!?」」」
ひまりのピュアで博識な一撃が、店内に爆弾を落とした。
「(し、幸せが重なる……!? 関係が長く続く……!? つまり翔くんは、私との未来の年輪を重ねていきたいってメッセージを、あえて言葉じゃなくお菓子に託したってことぉーー!?)」
カウンターの中で美緒先輩が完全にキャパシティをオーバーし、真っ赤な顔のまま両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
解説された側の翔は、ナポリタンをフォークで巻き取ったまま、いつもの調子でぼそりと呟く。
「……ただ美味そうだったから買っただけだ」
「あはは、本当、いつものサフランに戻りましたね」
香織が呆れたように、でも嬉しそうに笑う。
「ええ。これぞサフランの日常です」
遥が静かに頷き、ひまりも真っ赤になってうずくまる美緒先輩を見つめながら、楽しそうに微笑んでいる。
俺はカウンターの端から、新しくなった女子会トークと、今までと少しも変わらない隣で黙々とナポリタンを運ぶ不器用な男を眺め、そっとコーヒーを口に運んだ。
形は新しくなった。だけど、この居心地の良さと、めんどくさくて、愛おしい喧騒は、何一つ変わらない。
「……ごちそうさま」




