美緒帰還
俺は今日もサフランのカウンターで皿を拭きながら入口の方を眺めていた。
カラン、と扉が開く。
「……あ、美緒先輩来た!」
香織がパッと手を振る。その声につられるように、店内の空気がふわっと一段階明るくなった。
教育実習を終えたばかりの美緒先輩は、どこか誇らしげで、でも同時に魂が半分抜けかけたような顔をしていた。扉を閉めた瞬間、香織が勢いよく抱きつく。
「美緒先輩、おかえりなさーい!」
「おかえりなさい、美緒さん。実習、お疲れさまです」
「美緒先輩、お疲れさまでした……!」
遥が穏やかに微笑み、その隣では、すっかりこの席に馴染んだひまりが緊張しつつも嬉しそうに頭を下げた。
美緒先輩は照れ隠しのように頬を赤くしながらも、ふと店内に目を走らせた。
「ただいま……って、三木くん、ありがとう。なんかサフラン、雰囲気変わった? あと、その可愛い子は……?」
俺は視線をそらし、曖昧に笑ってごまかす。
「多少はな。留守中にいろいろあったんだよ」
「いろいろ?」
「まあ、そのうち分かる。それよりお疲れ」
美緒先輩は首をかしげながらカウンターに近いテーブル席に座った。
すかさず香織が隣の席を陣取り、遥が紅茶を淹れながら反対側に滑り込む。
ひまりも香織の隣でちょこんと目を輝かせている。
この女子たちの“美緒先輩囲い込み速度”は相変わらずマッハだ。
「でね、聞いてよみんな! 男って本当に意味わかんないのよ!『ぁ』とか『。』とか意味不明 のLINE返信で私のパッションを強制終了させた男がいるのよ!!」
香織が手を叩いて爆笑し、ひまりも「あ、それは確かに切ないです……」とクスクス笑う。
「あはは! 翔先輩、期待を裏切らない安定感ですねー!」
「翔は悪気ゼロです。脳の回線がそういうバグを抱えているだけですので」
遥の淡々とした補足に、美緒先輩はガクッと机に突っ伏した。
「もうやだ……! 私、サフランに帰ってきたら極上の癒やしが待ってると思ってたのに……!」
(……いや、癒やされるどころか、新しいツッコミ役が増えてこれからもっと騒がしくなると思うぞ)
俺がカウンターの奥で心の中でツッコんだ瞬間、サフランの扉が再びカランと鳴った。
美緒先輩が振り返る。香織も遥もひまりも振り返る。ついでに俺も目を向ける。
そこに立っていたのは、寝癖のついた髪に、いつも通りの眠そうな無表情で存在感の薄さで、手にはサフランの紙袋をぶら下げた——津島翔だった。
「……あ、おかえり」
その、いつもと変わらないぶっきらぼうな一言で、美緒先輩の顔が一気に沸騰したように真っ赤になる。
「た、ただいま……翔くん……」
香織とひまりがニヤニヤと顔を見合わせ、カウンター越しに俺の方をチラチラ見てくる。香織が小さく声を潜めて言った。
「俊先輩、見ました? あれ絶対、限界突破した“恋する乙女の顔”ですよね?」
「……まあ、否定はしない。分かりやすすぎるだろ」
遥は紅茶を静かにすすりながら、冷静にバイタルを測定している。
「美緒さん、明らかに心拍数が急上昇しています。ひまりちゃん、お水を」
「は、はい! 美緒先輩、お水どうぞっ!」
「う、うるさいわよみんな!!」
そんな外野の騒ぎを一切気にする様子もなく、翔は相変わらずの無表情のまま、持っていた紙袋を美緒先輩の目の前に差し出した。
「……これ。実習お疲れ。マスターから、戻ったら渡しとけって」
「えっ……あ、ありがとう……」
美緒先輩は、まるで世界に一つだけの宝物でも受け取るように紙袋を両手で大事に胸に抱きしめ、さらに顔を赤くする。
すかさず香織が身を乗り出してツッコんだ。
「ちょっと翔先輩! なんでLINEでは『。』しか送らないくせに、リアルではそういう不意打ちの優しさ発揮するんですか!? 美緒先輩の心臓の寿命が縮むのでやめてあげてください!」
ひまりも小さく拳を握って「そうです! 男の人のそういう無自覚、一番心臓に悪いです……!」と、実体験(三木俊による被害)を乗せて力強く同意した。
「え? 俺、なんか変なことした?」
「大有りよ!! 確信犯じゃないならタチが悪すぎるわよ!!」
美緒先輩が恥ずかしさのあまり叫び、翔はぽかんとした顔で首を傾げている。
文字通り、一瞬でいつものサフランの空気に引き戻されていく。
(……ああ、こりゃ今日も、明日も、当分は騒がしくなるな)
俺はカウンターの奥で、そっと小さくため息をついた。
美緒先輩が帰ってきた。
ひまりが加わって、これで6人がそろった。
少しだけ形が変わって、より一層賑やかになった、だけど愛すべきサフランの日常が戻ってきた。
——そして。
美緒先輩が宝物のように抱きしめている、その紙袋の中身についてだが。
実は、俺はそれが何かを知っている。
中身は、マスターから預かったという、綺麗にクリーニングされたサフランのエプロンだ。
ただ、それだけじゃない。
美緒先輩が教育実習中、翔からどうしても文字数の多い返信が欲しくて送信した、ひとつのLINEメッセージがあった。
38話のあのやり取り。
『翔くんは何のスイーツが好き? 焼き菓子? それとも和菓子? 具体的に教えて!』
その問いに対し、当時の翔から返ってきたのは『ぁ』という、もはや絶望的な一文字だけだった。
美緒先輩が「パッションを強制終了させられた」と嘆いていた、あのやり取りだ。
だが、あの男の脳細胞は、決して崩壊していたわけではなかったらしい。
ただ、不器用なほどにアナログなだけだったのだ。
翔が今日、マスターから頼まれたエプロンと一緒に、その紙袋の底にこっそりと忍ばせたもの。
それこそが、美緒先輩のあの質問に対する、翔なりの「極めて具体的で、不器用なアンサー」だった。
中身が何だったのかは、もう少しだけ、俺たちの胸の中に秘密にしておこう。
今、紙袋をそっと覗き込んで、世界で一番幸せそうな顔で泣きそうになっている美緒先輩だけの特権にしてあげるために。




