ざわつくサフラン
週末が明けた平日の夕方。学生街の憩いの場である『喫茶サフラン』のドアを開けた瞬間、私はインサイドの空気が明らかにいつもと違うことに気づいた。
なんだか、やけにざわついている。
普段のサフランは、サボり気味の学生や近所のおじいちゃんが新聞を広げているような、良くも悪くもゆるい空間だ。だけど、今日の客層は明らかに偏っていた。
女子学生が多い。それも、みんなそわそわして落ち着きがなく、チラチラとある一方向ばかりを盗み見ているのだ。
「……あ、香織ちゃん、いらっしゃい」
カウンターの端の席で、天然記念物――津島翔先輩が、混雑の理由がさっぱり分からないといった様子で首をかしげていた。
昼間の冴えないモード全開の先輩は、ボサボサの髪を掻きながらメニューを眺めている。
私は空いている翔先輩の隣の席に滑り込み、お馴染みのアイスティーを注文しようとして、その「ざわつきの原因」と正面から目が合った。
カウンターの内側。美緒先輩の臨時バイトを引き受けてから一週間。すっかりサフランの制服である黒のエプロンを着こなしたその男――理学部物理学科三年の三木俊先輩がそこにいた。
俊先輩はピカピカに磨き上げられたエスプレッソマシンのステンレスボディを鏡代わりに、前髪の角度を微調整している。
私と目が合うと、フッと芸能人のような完璧なスマイルを浮かべて見せた。
「やあ、香織ちゃん。クローバーのバイト前かい? 今日も俺の美貌と極上のドリンクで、最高のブレイクタイムを届けてあげるよ」
……あ、原因これだ。
私は心の中で盛大にため息をついた。
俊先輩がカウンターに入って一週間、この店はちょっとした「イケメンバリスタがいる店」として女子学生の間で噂になってしまっているらしい。
当の俊先輩は、自分が女子たちの視線を一身に浴びていることに気づきつつも、それを当然の賞賛として優雅に受け流している。
大学の通路で見せる、あの鉄壁の『全反射バリア』は健在というわけだ。
そのとき、カランコロンと涼やかなドアベルの音と共に、水野遥先輩が入ってきた。
スレンダーな美貌に、知性を形にしたような冷静沈着さ。そして、目の前で女子学生たちに囲まれて輝いている俊先輩の、最愛の彼女でもある。
「遥さん、ここ空いてますよ!」
私がパタパタと隣の席を軽く叩くと、遥先輩は静かに歩み寄って私の隣――つまり翔先輩の向こう側に腰を下ろした。その横顔はいつも通り冷静そのもの。
店内にぎっしり詰まった女子学生たちの熱い視線が彼氏に注がれているのを見ても、全く動揺する気配がない。
すると、一週間経ってもサッパリ状況が分かっていない翔先輩が、隣の遥先輩に向かってぽかんとした顔で話しかけた。
「ねえ遥。サフラン、どうして最近こんなに混んでいるのかな? いつもはもっと静かなのに、なんか不思議だよね」
悪気も他意もない、純粋な天然の疑問。
その問いかけを聞いた瞬間、遥先輩はふっと誇らしげに口元を緩めた。
動揺や嫉妬なんて微塵もなく、むしろ「私の彼氏、すごいでしょ?」と自慢したくてたまらない、といった絶対的な余裕の笑みだ。
「不思議でも何でもないわよ、翔。みんな、カウンターの中にいる俊を見に来ているの。俊がこれだけ格好良くて注目を浴びているんだから、お店が満席になるなんて当然だわ」
……わあ。
遥先輩、声のトーンこそいつも通りクールで平常運転だけど、その内容は100%濃度の惚気そのものだった。
俊先輩がモテるのを当然のこととして受け入れ、むしろ自分の彼氏の格好良さを周囲に全方位アピールする領域に達している。
そして、それは俊先輩側も同じだった。どれだけ周囲の女子学生から熱い視線を送られようとも、俊先輩の瞳が向く先は、最初から最後まで遥先輩ただ一人。そこに浮つくような気配は一切ない。
「おっと遥、いらっしゃい。ちょうど君のために、最高のカプチーノを準備していたところさ」
俊先輩はスマートな手つきで、遥先輩の前に完璧な手際でカップを差し出した。
遥先輩がカップの中を覗き込む。
そこには、きめ細やかで純白のミルクフォームの上に、完璧なバランスで描かれた、驚くほど綺麗なラテアートの「ハート」が浮かんでいた。
初日に私と翔先輩の前で披露した、あの不格好な『ちぎれた層雲』なんて、もうどこにもない。
遥先輩はそれを見て、嬉しそうに目を細めた。
「……俊。すごく綺麗なハートね。一週間でここまで上達するなんて、さすが私の彼氏だわ」
「フッ、当然さ。君に捧げる一杯だからね。毎日アパートでイメージトレーニングと実技を重ねた成果だよ」
俊先輩がキリッとウインクを決めると、遥先輩は小さく笑って、愛おしそうにカプチーノを口に運んだ。
「味も、完璧」という彼女の呟きに、俊先輩は最高に満足げな笑みを浮かべている。
二人の間に流れる甘い空気と、あまりのラブラブっぷりに、隣にいた私は完全に「ごちそうさまです」状態だ。
後ろの席の女子学生たちも、二人の鉄壁の絆を察して、もはや静かに見守る聖地巡礼モードに入っている。
「ん? ……あ、本当だ。三木、ラテアート上手くなったね」
翔先輩だけが、ずずずと自分のコーヒーを啜りながら、いつも通り天然の無防備な笑顔を浮かべていた。
昨日、自分の「ナポリタン発言」のせいでグループLINEが熱核融合ばりに大炎上したことにも、美緒先輩からの生存確認LINEが溜まっていることにも気づかない男は、今日もブレない。
アイスティーを飲み干し、賑やかな余韻が残るサフランを後にしながら、私は思った。
美緒先輩がいない三週間、どうなることかと思ったけれど、この完璧な信頼関係で結ばれた臨時バイト(と、その激甘な彼女)がいる限り、サフランの平和と面白さは安泰のようだ。
……やっぱり、こういう日が一番面白い。




