ナポレターナ
週末の昼下がりのサフランは、いつもより静かだった。
カウンター席で、翔がスプーンを持ったままぼんやり天井を見上げている。
「はぁ……。美緒さんのナポリタンが食いたいなぁ……」
……また始まった。
三木がグラスを拭く手を止め、香織は向かいの席でストローをくわえたままニヤニヤしている。
「相変わらずだな、翔。そこまで言うなら、俺が美味いパスタを作ってやるよ。美緒さん直伝とはいかないが、イタリアの本格派をな」
三木はすぐに厨房へ消え、数分後には本格トマトソースとバジルの香りが店中に広がった。さすが我が恋人、手際と見栄えだけは本当に良い。
「ほら、食え。ナポレターナだ」
翔は目を輝かせてフォークを伸ばし、勢いよく麺をすすった。
……いや、パスタはすすらないでほしいんだけど。
一口噛んだ瞬間、翔の動きがピタリと止まる。
「……どうだ?」
三木が自信満々に胸を張る。
対する翔は、申し訳なさそうに首を傾げた。
「うーん……美味い、美味いんだけどさ。なんか違うんだよなぁ。やっぱり美緒さんの方が断然好きだな」
……はい出ました。翔の“悪気ゼロで人を殺す褒め方”。
ただのチープなナポリタンが好きなだけなのに、主語と目的語の端折り方が致命的すぎる。
案の定、三木の脳内で昨日からの「勘違いキューピッド回路」が火を噴いた。
(……マジかよ。俺の本格パスタより美緒さんのナポリタンがいいって……。これ、完全に美緒さんがいなくて寂しいって意味じゃん!)
いや違う。1ミリも違わないレベルで、ただの食欲の話よ。
でも、三木はもう嬉々としてスマホを取り出している。嫌な予感しかしない。
5人のLINEグループに、三木の熱いメッセージが投下された。
三木:【大変です。今サフランで、翔が美緒さんがいなくて、相当寂しがってるみたいです】
……大変なのはお前の読解力と脳内解釈の非線形性だよ。
すぐに香織がいたずら心で油を注ぐ。
香織:【ですねー! 翔先輩、美緒先輩がいなくて完全におセンチモード入ってますよ? 『美緒さんの方が断然好き』と言っています】
頭痛がしてきた。この二人の“誤解の増幅回路”、どうにかならないのだろうか。
そして案の定、地元で教育実習中の美緒先輩が画面の向こうで大爆発した。
美緒:【な、ななな、何ですってー!?】
美緒:【翔くんそんなに寂しがってるの!? 私がいないとやっぱりダメなんだわ!】
職員室で叫んでないといいけど……いや、絶対叫んでる。
狂喜乱舞のスタンプと長文が超高速で画面を埋め尽くすのを見て、私はため息をついた。
「……また始まった」
私は冷ややかにスマホを叩く。
遥:【美緒先輩、落ち着いて。三木の勘違いだから。ちゃんと授業してきて下さい】
もちろん届かない。実習のストレスも相まってか、美緒先輩の暴走熱力学は、一度閾値を超えたら誰にも止められない。今日は完全に不可逆反応だ。
翌日。
そんなお祭り騒ぎなど露知らず、翔はコンビニでナポリタンを手に取っていた。
「はぁ、やっぱりナポリタンだよな……」
底がオレンジ色に染まった、上げ底容器の大盛りナポリタン。
……これを“美緒さんの味”の基準にするの、本当にやめてほしい。
レンジでチンしてもらい、嬉しそうに一口。
「うん! これこれ! このちょっと焦げたケチャップの味が最高なんだよなぁ。美緒さんの味にそっくりだ!」
……美緒先輩が聞いたら泣くぞ。
ケチャップを口元につけたまま幸せそうに麺をすする翔を見て、私は確信した。
この男の鈍感さ、天然記念物から世界遺産に格上げだ。
今日も世界は平和である。美緒先輩の脳内だけが総力戦状態なことを除けば。
というか翔、たまにはLINEの通知を見ろ。あんたのせいでグループが炎上、いや、熱核融合を起こしてるんだから。




