ピンチヒッター 三木俊
ピカピカに磨き上げられたエスプレッソマシンのステンレスボディ。そこに映る一糸乱れぬ前髪を直して、俺――三木俊はフッと満足げな笑みを漏らした。
「……よし、完璧だ。黒のエプロンも、俺の美貌を引き立てるための衣装に過ぎないな」
教育実習で三週間不在の美緒先輩に代わり、俺が喫茶『サフラン』の臨時バイトを引き受けた初日。夕方のカウンターには、すでにいつものメンバーが並んで座っていた。
俺の全引力をパルス状にトラップしている最愛の恋人、遥。
いたずら好きの後輩、山下香織。
そして、我が物理学科が誇る純粋培養の天然記念物――津島翔だ。
「はい、お待ち遠さま。遥、俺の業務用マシン初作品――カプチーノだ」
スマートな手つきで遥の前にカップを差し出す。独学でのイメージトレーニングは完璧だったが、店のマシンのスチーム圧は俺のアパートにある家庭用とはケタ違いだった。
遥はカップの中の、モコモコと不格好に膨らんだ白い泡をじっと見つめた。
「……俊。これ、何を描いたの?」
「フッ、愛を込めたハートのつもりなんだが?」
「ハートっていうより、ただのちぎれた層雲ね」
遥が冷静沈着なストレートを打ち込むと、隣の席の香織が「ぶふっ!」と吹き出した。
「あはは! 三木先輩、形ひどい! 翔、見てよこれ!」
「ん? ……あ、本当だ。レイノルズ数が大きすぎるよ」
「レイノルズ数は関係ないわ。ただの撹乱よ。これだけ乱流が起こったらすべて混じってしまうでしょう」
昨日、大学の通路で俺に「物理的誘惑の遮断効率を上げたら?」と言い放った遥の、相変わらず鋭い物理ツッコミが飛ぶ。美緒先輩がいないことを除けば、ここはいつもの『サフラン』のはずだった。
だがその時、俺の『おせっかいセンサー』がビンビンと反応した。
見ろ、あの翔の力のない視線を。美緒先輩という心の支えを失い、完全に魂がブラックホールに吸い込まれている証拠ではないか!
「おい翔。無理をするな」
「え? 何が?」
「隠さなくてもいい。美緒先輩がいないサフランが、こんなにも寒々しいものだとはな……。お前のお腹にぽっかり空いた暗黒の寂しさ、この親友の俺が優しく埋めてやる。美緒さんに会えなくて淋しいんだろう?」
自分の慈愛に満ちたセリフに酔いしれながら、美しい手つきで髪をかき上げた。
すると翔は、思いがけず勢いよく頷いた。
「当然だよ!」
(……やっぱり! 俺の目に狂いはなかった!)
キューピッドとして先回りして仕込みをしておかねばならない。完璧な計画だ。美緒先輩が戻ってきたとき、翔が素直に「寂しかった」と言える環境を、この三週間で俺が作ってやる。男の友情とは、こういうお節介を言うのさ。
と、俺が一人で男泣きしそうになっていた瞬間、遥が横から冷ややかに口を挟んだ。
「どうせ、美緒先輩のナポリタンが食べられないから、言っているだけでしょ」
「ばれてる」
翔は眼鏡の位置をくいっと直すと、心底不思議そうな顔で俺を見た。
「いや、別に美緒先輩に会えなくて寂しいわけじゃないって。ナポリタンが無いのは寂しいけど。……あ、でも美緒先輩の教育実習、大変そうだね。なんか『生存確認』とか言って毎日LINE入れさせられてるけど、そんなに大変なのかな」
「なっ……! お前、そこまで強がるのか……!」
それは実習先で寂しさに耐えかねた美緒先輩が、翔との繋がりを求めて命じた愛のホットラインに他ならない! 俺が翔からスマホを取り上げ、強制的にLINEをインストールさせたあの努力が、今こうして実を結んでいるのだ!
それをあいつは『大変そうだね』の一言で片付けるとは!
(……クッ! 翔の奴、ここまで重症だったとは! 照れ隠しで美緒先輩より俺のコーヒー(の失敗)を褒めたり、ナポリタンのせいにしたりすることで、寂しさから現実逃避しているな!? なんという不器用な男だ……!)
俺の脳内では、すでに翔のツンデレ心理分析が斜め上45度の方向へ完了していた。
「あはははは! お腹痛い、笑い死ぬかと思った!」
香織がカウンターに突っ伏して激しく震え出した。
遥はといえば、完全に『知ってた』という顔で、おでこに手を当てて天井を見上げている。
やがて夕方が近づき、「じゃあ、私、家庭教師の時間だから」と遥がスマートに席を立った。
「がんばってね、名キューピッドさん」
昨日、俺の愛の引力を「宇宙の法則」と言い切ったときのように、ほんの少し耳たぶを赤くしながら、含みのある応援を残して。
続いて「翔先輩、クローバーのバイト行くよ!」と、香織が翔の首根っこを掴むようにして引っ張っていく。
静かになった店内で、俺は翔が残していった空のカップを愛おしそうに眺め、それから再びエスプレッソマシンの鏡面に向き直った。
「フッ……翔の奴、あんなに分かりやすく照れちゃって。美緒先輩、安心してください。この三木俊が、あのヘタレな男の心を、三週間で素直な愛の奴隷へと仕込んでおきますからね」
鏡の中の完璧なイケメン(俺)に向かってキリッとウインクを決め、俺はサフランの黒板メニューに『三木特製・恋を呼ぶカプチーノ』と華麗な文字で書き加えた。
全反射イケメンによる、あまりにも前途多難で、あまりにも華麗な勘違いキューピッドの三週間が、今ここに幕を開けたのだ。




