物理学科の奇跡 三木俊
ここは地方国立大学の理学部棟、およそ「華やかさ」や「色気」といった概念とは無縁のセクターである。圧倒的多数を占める男子学生たちの熱気に満ちている。
実用性だけを追求した結果、なぜか全員が似たようなアースカラーかチェックシャツに身を包み、むさ苦しい低音のボイスが常に充満している。
しかし、そんな中で、明らかに周囲の時空を不自然に歪めている超常現象が存在した。
三木俊、二十歳。理学部物理学科の三年生である。
神が配置を間違えたとしか思えない、無造作に見えて計算され尽くした髪型。インナーの白Tシャツにニュアンスカラーのルーズな半袖ジャケットを羽織り、シルバーのネックレスをさらりと効かせた洗練のスタイル。
数千人が行き交う広大なキャンパスにあっても、彼がただ通路を歩くだけで、周囲の空間には奇妙な現象が発生する。
「あ、三木くんだ……!」
「嘘、今日こっちの棟にいる! 今日もかっこよすぎない……?」
すれ違う女子学生たちの視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられるように、面白いように彼へと収束していくのだ。
理学部棟から、文学部や教育学部の学生が多く行き交う中央通路へ差し掛かると、その引力はさらに牙をむく。
三木がただ教科書を小脇に抱え、普通に歩いているだけなのに、すれ違う周囲の熱量は一気に跳ね上がる。
「ねえ、今の物理の三木先輩じゃない? 少女漫画の実写化?」
普段は子どもたちの教育論を語る教育学部の女子も、近代文学を愛する文学部の女子も、すれ違いざまに明確に色めき立ち、ソワソワと振り返る。大勢の学生がひしめくこの大学において、むさ苦しい男子が過密ドミノ倒しを起こしている物理学科に、なぜあのような超新星が存在しているのか、キャンパス七不思議レベルの怪奇現象だった。
これほどの熱視線、あるいは隠しきれない好意の波動を浴びれば、普通の男なら鼻の下を伸ばすか、あるいはドヤ顔で周囲を見渡すところだろう。
だが、三木俊という男の特殊性は、その容姿以上に、その徹底した「スルー技術」にあった。
「あの、三木くん……っ!」
通路の階段前で、意を決したように声をかけてきた女子学生がいた。お洒落な雰囲気をまとった、おそらく文学部の学生だ。彼女は林檎のように顔を真っ赤にしながら、スマートフォンを差し出してきた。
「これ、もしよかったら……LINE、交換してくれないかな? 今度、みんなでご飯とか行くから、よければと思って……!」
大勢の学生の中で、声をかけるチャンスを狙っていたのだろう。これは清水の舞台から背面飛び降りするほどの勇気を振り絞ったアプローチである。
対する三木は、歩みを止め、彼女に対して一切の不快感を見せない、完璧に爽やかなアルカイックスマイルを浮かべた。そして、その誰もがノックアウトされる美貌のまま、彼は言った。
「あ、ごめん。俺、彼女いるから」
一瞬の淀みもない、光速の拒減。
嫌味もなければ、含みもない。ただ「太陽光が鏡に当たって100%跳ね返る」かのように自然で、容赦のない『全反射』だった。
「あ、えっと……そっか、ごめんね」
「ううん、じゃあ」
三木は軽く会釈すると、そのまま滑らかな足取りで去っていく。
連絡先を聞いた彼女は、フラれたショックよりも、そのあまりに綺麗な拒絶の鮮やかさに、「え、今私、美しい壁にぶつかった?」としばらく呆然と立ち尽くすほかなかった。
彼はどれだけ周囲から熱視線を送られても、どれほど純朴な好意を寄せられても、決して揺らがない。
学内では「三木俊には誰も近付けない」「鉄壁のバリアがある」と半ば都市伝説化していた。
だが、全反射を終えた三木が、再び歩き出しながらポケットからスマートフォンを取り出した瞬間、その「鉄壁」はギャグのようにお釈迦になる。
画面に表示されていたのは、送り主『水野遥』からの通知。
【3限の講義室、真ん中の席取った。早く来ないと席が男子で埋まる】
用件だけが簡潔に記された、愛想もクソもないメッセージ。
それを見た瞬間、さっきまで周囲の誘惑を完璧にシャットアウトしていた冷徹なイケメンの顔が、一瞬でデレデレに崩壊した。
「ふふっ……遥、待っててくれてる……」
三木の口元が、締まりなくフフッと緩む。目元はすっかりふにゃふにゃになり、まるで大好きな骨を見つけた犬のように画面を凝視している。
その変わりようといったら、物理学における極端な相転移――熱湯が一瞬でカチコチの氷になるような劇的な変化だった。
水野遥。理学部物理学科の三年生であり、三木と同級生の二十歳。
そして、三木俊がその強大な引力を唯一、全方位から注ぎ込んでいる最愛の恋人であった。
三木が3限の講義室のドアを開けると、大勢の男だらけでむさ苦しい空間のなかに、ぽつんとオアシスのように佇む遥の姿があった。
スレンダーで無駄のない美しいプロポーション。サックスブルーの爽やかな長袖シャツの袖を軽くまくり、清潔感のあるホワイトのワイドパンツを着こなす、知性と気品に溢れた佇まい。黒髪を後ろで一つに結び、知性そのものを形にしたような冷静沈着な美貌で、彼女は入ってきた三木を一瞥し、感情の起伏が少ない声で言った。
「遅い。通路でまた『全反射の実験』でもしていたの?」
「いや、捕まってないって! ちゃんと光の速さでスルーしてきた」
三木は嬉しそうに遥の隣の席に滑り込み、さっきまでのイケメンオーラを完全に霧散させて、大型犬のように彼女にすり寄る。
「嘘ね。あなたの周囲の時空が歪んでいるせいで、いつもタイムロスが発生する。物理的誘惑の遮断効率をもっと上げたらどう?」
「これ以上は無理だよ。俺の引力は、遥にしか働かないように宇宙の法則で決まってるんだから」
呆れたように大きな溜息をつく遥だが、その耳たぶが微かに赤くなるのを、三木は見逃さない。
数千人の学生が行き交うこの広いキャンパスで、どれほど周囲の女子が囁こうとも、他学部の女子が勇気を出そうとも、三木俊の全エネルギーは、この冷静沈着で頭脳明晰な一人の美女によって、完全にトラップ(捕捉)されている。
本日も三木俊の強大な引力は、ただ一人水野遥のためだけに無駄使いされているのであった。




