恋愛相談
翌朝。私は一睡もできないまま、いつもの“完璧なマドンナ”の仮面を貼りつけて教壇に立っていた。
目の前の高校生たちはキラキラした瞳で国語の授業を聞いてくれる。授業のコツも掴み、実習生としては文句なしの100点満点。……なのに、私の脳内では昨夜届いた実質0.5文字の 【ぁ】 が、ゲシュタルト崩壊しながら高速回転していた。
(『ぁ』って何よ。トドメ? 暗号? それとも高度な量子力学のモールス信号!?)
寝不足の頭で怨念をドロドロに煮詰めていた放課後、クラスの女子生徒・ひかりに、人気のない渡り廊下へ呼び出された。ひかりは長めのスカートを揺らしながら、今どきの女子高生らしい上目遣いで私を覗き込んでくる。
「ねえ、美緒先生。先生って大学で心理学やってるんだよね? ……ちょっと、誰にも言えない恋愛相談に乗ってほしいんだけど」
キタ。教育実習の醍醐味、生徒からの秘密の恋愛相談!
私は昨夜の般若の顔を一瞬で封印し、ふっと大人の余裕を漂わせる微笑みを浮かべた。長身を活かし、少し首を傾げて目線を合わせる。
「いいわよ、ひかりさん。心理学の観点から、あなたの恋のバイオリズムを紐解いてあげる。何に悩んでいるの?」
完璧。これぞ全男子生徒の初恋を奪うマドンナムーブ。
しかし、ひかりの口から飛び出した悩みは、私の古傷をミリ単位の正確さで抉ってきた。
「同じクラスの男子にLINEしてるんだけど……返信が一言しか来ないの。一昨日なんか 【おう】 だけ。これって脈なしなのかな?」
——【おう】の2文字。
その瞬間、私の心の中で昨夜の 【ぁ】 が音を立てて爆発した。大人の微笑みがピキリと凍りつく。
「甘いわ」
「えっ?」
私はひかりの両肩をガシッと掴み、般若の眼差しで詰め寄った。
「甘い、甘すぎるわひかりさん! 『おう』の2文字なんて、生存確認ができるだけ天国よ! 男という生き物はね、放っておくと文字数がカウントダウンみたいに減っていって、最終的には『はい』の2文字、その次はアルファベットの『YES』、そして最後には 【ぁ】 とかいう、50音の1マスにも満たない未知の小文字でこちらのパッションを片付けようとする、恐ろしいミニマリズムの怪物なのよ!!」
「せ、先生……? 顔、怖い。美人が台無し……」
ひかりが完全に引いている。ハッと我に返った私は、慌てて手を離し、咳払いをして髪を整えた。
「コ、ホン。つまりね、心理学的にはテキストの短さは必ずしも関心の薄さを示すわけではなく、男性脳特有のシングルタスク処理能力における……」
「ねえ先生」
ひかりが半目のガラ悪いギャル顔で、私の言葉をバッサリ遮った。
「……もしかして先生、付き合ったことない? もしくは、その『ぁ』って人に絶賛遊ばれてる?」
「なっ……!?」
心臓が跳ね上がった。
学園のマドンナ、大学のミスコン候補(自称)、文学部心理学科の明晰なる頭脳が、17歳の女子高生に一瞬で見透かされたのだ。動揺して顔を真っ赤にする私を見て、ひかりは深いため息をついた。
「やっぱり。先生、顔は超色っぽいのに、中身は中学生じゃん。ウケる」
「う、うるさいわね! 私は付き合ってはないけれど、大学にとても大切な……その、留年している物理男子がいて……!」
「留年物理男子、属性盛りすぎでしょ」
ひかりは呆れたように笑い、今度は逆に私の背中をポンポンと慰めるように叩いた。
「あのさ先生。男の子に心理学のトラップとか仕掛けたら重いだけだって。LINEなんて中身なくていいの。その先輩さ、ただポケットの中でスマホが誤動作して『ぁ』って送っちゃっただけでしょ?」
「……え?」
ポケットの、誤動作?
あんこって言おうとして力尽きたわけでも、私を高度におちょくっているわけでもなく?
「そうだよ。だからさ、そんな難しい顔してないで、直球で可愛いスタンプでも送りなよ。はい、これ先生のスマホ。早く『早く会いたい』って送りな?」
ひかりにスマホを握らされ、画面の「津島 翔」を見つめる。
心理学的効果の薄い、あのフリー素材みたいなフリークティカルなスタンプに私のパッションを委ねるなんて……とプライドが激しく抵抗したが、ひかりの真っ直ぐな瞳に押され、私は震える指でクマがジタバタしているスタンプを送信した。
その刹那。画面に表示される 【既読】 の文字。
「ひ、ひかりさん……! 既読がついたわ! 心理学的にこのレスポンス速度は……!」
「落ち着いて先生、心臓の音こっちまで聞こえてるから!」
夕暮れのチャイムが渡り廊下に響く。
高校生に恋愛偏差値の低さを指摘され、立場が完全逆転した教育実習第3週。
私の薄っぺらな恋の論文に、新しいページが書き加えられようとしていた。




