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LAST TEAR

俺は津島翔。どこにでもいる、いや、ちょっとだけ不名誉な肩書を持つ、ただいま絶賛留年中の大学生である。


昼間は大学の講義に出席し、夜はこうしてバイトに精を出す毎日だ。


バイト先は、大学のキャンパスから離れた繁華街にある「洋風居酒屋クローバー」。


居酒屋とは名乗っているものの、レンガ調の壁に落ち着いた照明、豊富な洋食メニューと、それなりに本格的なアルコールを取り揃えている、ちょっと洒落た店だ。


普段の俺は、ホールを駆け回って料理を運んだり、洗い場で皿を洗ったりしている。


けれど、マスターの機嫌が良い時や、深夜になって店が落ち着いてくると、たまにカウンターに入らせてもらえることがある。


マスター直伝のカクテルメイクは、不器用な俺にとって、日常の泥臭さを忘れさせてくれる特別な時間だった。


ある日の夜。時計の針はすでに午前二時を回ろうとしていた。


平日のこんな時間、さすがのクローバーも客足が途絶え、店内にはジャズのBGMが静かに流れるだけ。


俺はカウンターの中で、グラスを磨きながら店じまいの準備を始めていた。


カラン、とドアの鈴が鳴ったのは、ちょうどその時だった。


ドアを押し開けたのは、一人の女性客だった。


彼女は迷うような、今にも倒れてしまいそうな足取りで、入り口から一番近いカウンターの端の席に腰を下ろした。


「いらっしゃいませ」と声をかけ、差し出したおしぼりを受け取る時、彼女の指先がわずかに震えているのが目に入る。


グラスを持つ手にも、まるで行き場を失ったかのように力が入っていない。


うつむき加減の彼女の横顔を盗み見る。街灯の光を反射する夜の窓よりも暗い、薄い影が目の下に落ちていた。


(……泣いた後の目だ)


普段は頼りない留年生の俺だけど、カウンターの中にいる時だけは、客の表情に敏感になる。


腫れたまぶた、赤くなった鼻頭。


それを隠すように不自然に整えられた前髪。


すべてが彼女の「たった今終わった恋」を物語っていた。


「何か、お作りしましょうか」


俺の静かな声に、彼女はビクッと肩を揺らし、それから弱々しく「お任せで……」とだけ呟いた。


メニューを開く気力さえ残っていないのだろう。


よし、と心の中で小さく頷く。


今の彼女に必要なのは、現実をすべて忘れさせるような強いアルコールでも、ただただ甘やかすだけのジュースのようなカクテルでもない。


俺はバースプーンを手に取り、いくつかのボトルをバックバーから下ろした。


ベースに選んだのは、芯のある、しかしどこか温かみのあるジン。


そこに少しの柑橘の苦味と、ほんのりとした甘さを加える。


甘すぎず、でも優しさの残る味わい。


それが今の彼女の乾いた心に一番染みるはずだ。


そして、演出。カクテルは味だけでなく、視覚で物語を紡ぐものだから。


ミキシンググラスでステアした液体を注ぐ前に、グラスの底へ、重いリキュールを静かに沈める。


それは鮮やかな、しかしどこか血の通ったような、生々しい赤。


その上に、比重の軽い透明な液体と、淡い青のリキュールをそっとレイヤード(層に)していく。


完成した一杯を、彼女の前に滑らせた。


底に沈む赤は、彼女の胸の奥でまだ消えない、引きちぎられるような痛み。


しかしその上を覆う淡い青は、夜明け前の空の色。少しだけ冷静さを取り戻し、前を向くための色。


彼女は、じっとグラスを見つめていた。カクテルの中で、赤と青の境界線が、クローバーのオレンジ色の照明を受けて妖しく、そして優しく揺れている。


「……これ、なんて名前ですか?」


掠れた声が、静かな店内に響いた。


「“Last Tear(最後の涙)”です」


俺がそう答えた瞬間、彼女の目から、堰き止められていたものが溢れ出した。


大声を出すわけではない。


ただ、ぽろぽろと、大粒の涙が静かに頬を伝い、カウンターに落ちていく。


それはきっと、彼の前では流せなかった、あるいは流すべきではなかった、本当の「終わり」の涙だったのだろう。


彼女は震える手でグラスを持ち上げ、愛おしそうに一口、口に含んだ。


ジンと柑橘の香りが鼻腔を抜け、ほのかな甘みが彼女の表情をわずかに和らげる。


「……ありがとう。これで、終われる気がします」


彼女は小さく笑った。まだ涙で濡れた目だったけれど、その瞳の奥には、カクテルの上層にある「淡い青」のような、確かな冷静さが灯っていた。


それから彼女は、ゆっくりと時間をかけて、その「最後の涙」を飲み干した。


グラスが空になった時、彼女の手はもう震えていなかった。


凛とした動作で財布を取り出し、会計を済ませてコートを羽織る。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました。お気をつけて」


カラン、と再び鈴が鳴り、彼女は夜の街へと消えていった。


まっすぐに伸びたその背中を見送りながら、俺は手元に残された空のグラスを手に取り、静かにリネンで拭き始めた。


白い布が、彼女の痛みの破片を拭い去るように、ガラスの曇りを消していく。

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