虚数空間を彷徨う2人
「――というわけで、幼児の自我形成プロセスにおける観測問題と、玩具の散乱による部屋のエントロピー増大は……」
「あ、あの……津島さん? なんか……難しい、ですね?」
「いえ、簡単です。片付けない子供はマクロな熱力学の法則に従っているだけなので、叱るのではなく確率論的にアプローチすべきです」
「…………」
出会って数分。女子たちの目はすっかり死んでいた。
どれだけ完璧なイケメンのガワを被っていようと、中身のバグが強烈すぎて、完全に「触れてはいけない美形の変質者」を見る目になっている。
(よし……! これで余計な浮気の心配は100%排除されたわ!)
私は心の中でガッツポーズをしながら、隣で魂の抜けた顔をしている三木先輩と、必死に会話を軌道修正しようとする山内先輩を横目に、手元のスマホを操作した。
もちろん、宛先は悶々としているはずの美緒先輩だ。
『大変です美緒先輩! 翔先輩が合コンで可愛い1年生たちに囲まれて、キラースマイルを連発してます! 急がないと誰かに観測(お持ち帰り)されちゃうかもです!』
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さあ、美緒先輩。あなたの波動関数を、そろそろ本音へと収束させてくださいね?
翌日の昼下がり。サフランの店内は、昨日の熱気が嘘のように静まり返っていた。
カウンターには私と、あるいは――カウンターの中で突っ伏したまま、燃え尽きた灰のようになっている美緒先輩の二人だけ。
「美緒先輩、大丈夫ですか? 昨日からずっとその状態ですけど」
「……大丈夫なわけないでしょ……」
美緒先輩が、恨めしそうな目を前髪の間から覗かせる。その目の下には、心なしかうっすらとクマがあるような気がした。
「香織、あんたねぇ……昨日のあのLINEは何よ! 私、あの後一睡もできなかったんだからね!? 翔が……あの翔が、綺麗な服を着て、女の子たちと、あんなことやこんなことを……!」
「あはは、どんな妄想したんですか。安心してください、翔先輩、いつもの調子でシュレディンガーの猫の話をぶち込んで、女の子たちを全員凍りつかせてましたから。完全な焼け野原でしたよ」
「え……?」
美緒先輩が、のそりと上半身を起こした。顔が希望と困惑で、また微妙に赤くなっていく。
「じゃあ……デートじゃなくて……ただの、合コンの数合わせ……?」
「そうです。まあ、三木先輩のカモフラージュに付き合わされただけみたいですけど。だから、翔先輩が綺麗な服を着てたのは、美緒先輩にカッコいいところを見せるためじゃなくて、単なる『合コン用の擬態』だったわけです。……なーんだ、つまんないの」
私がわざとらしくため息をつくと、美緒先輩の表情が劇的に変化した。
安心。安堵。そして、その後に押し寄せてきたのは――「じゃあ、あの思わせぶりな態度は何だったのよ!」という、行き場のない理不尽な怒りと羞恥心。
「っな、なによそれぇぇぇ!! 私の昨日のハラハラと脳内ゆらぎを返しなさいよ!! あのバグ男、本当に一発殴らせて……っ!」
カランコロン。
少し間の抜けたドアベルの音が、絶妙なタイミングで店内に響いた。
「……こんにちは」
入ってきたのは、翔先輩だった。
――そして私は、またしても二度見した。
「あ」と美緒先輩の口からマヌケな声が漏れる。
今日の翔先輩は、首元がだらしなく伸び切った、いつものヨレヨレのグレーのTシャツ姿だった。髪も寝癖がそのまま残っている。
昨日までのあのクリーンで洗練されたイケメンは、跡形もなく消え去っていた。
「……翔。あんた、今日のその格好は何よ」
美緒先輩が地を幾ような声で睨みつけると、翔先輩はいつも通りのポーカーフェイスで、不思議そうに首をかしげた。
「何って、いつもの服装ですが。昨日は合コンという特殊な境界条件があったため、一時的にマクロな状態を変化させていましたが、今日からは通常状態に基底状態されました」
「……はぁ!? じゃあ、一昨日にあんたが言った『理由はそのうち分かりますよ』って、ただの合コンのことだったわけ!?」
「はい。事前に言うと三木が騒ぐので、非局所的な秘匿義務が生じていました。おかげで昨日はエントロピーが非常に増大しましたが、今日は平和です」
そう言って、翔先輩は何事もなかったかのようにカウンターの端の席に座り、いつもの漫画を開いた。
あまりのブレなさに、私は呆れを通り越して感心すらしてしまう。
一方で、美緒先輩はわなわなと肩を震わせ、顔面を真っ赤に沸騰させていた。昨日の嫉妬も、焦燥も、ときめきも、すべてはこの男の「いつも通りのバグ」によって引き起こされた一人相撲だったのだ。
「翔の……」
美緒先輩が、カウンターをバンッ!と叩いて立ち上がる。
「翔のバカァァァァァァァァァァッ!!」
サフランの店内に、いつもの美緒先輩の絶叫が響き渡る。
「美緒さん、大声を出されると僕の鼓膜の振動エネルギーが過剰に励起するので、控えていただけますか。……あ、ところで香織。昨日どうして合コンにいたのですか?」
昨日から丸一日遅れて、ようやく処理が追いついたらしい翔先輩の疑問。
その一言に、ガタッと音を立てて反応したのは、美緒先輩のほうだった。
「――って、ちょっと待ち乗さいよ、香織!!」
翔先輩への怒りで沸騰していた美緒先輩の鋭い視線が、一瞬で私の方へとスライドした。
「な、何ですか美緒先輩。私はただ、翔先輩の無実を証明してあげただけじゃないですかー」
「白々しいわよ!! すべてあんたが裏で仕掛けた事でしょ! 関係ない人を使って合コンなんて企画して、私を悶々とさせて、トドメにあのLINE! 完全に面白がってマッチポンプ仕掛けたわね!?」
「え〜? 私はただ、可愛い先輩の恋の熱量を『励起』させてあげようと思っただけで……」
「翔の真似して物理用語で言い訳しないで!!」
カウンター越しに身を乗り出して、顔を真っ赤にしながら私を指差す美緒先輩。
「もういい! 翔にはコーヒーあげない! 香織には今週の新作試作タルト、絶対に食べさせてあげないから!!」
「ええ〜っ!? 美緒先輩のタルト、すっごく楽しみにしてたのに〜!」
わざとらしく肩を落点ててみせる私を、美緒先輩は「ふんっ!」と息を荒くして睨みつける。
だけどその怒り方も、どこか子供っぽくてやっぱり可愛い。
そんな私たちの修羅場を余所に、カウンターの端では、寝癖をつけたままの翔先輩が何食わぬ顔でページをめくった。
「美緒さん。タルトの配給停止は僕たちのエネルギー補給における重大な損失ですが、それによって美緒さんの不確定性原理が解消されるのであれば、熱力学的には仕方のない投資と言えます」
「あんたはちょっと黙ってて!!」
結局、美緒先輩の怒りのパラメータは再び翔先輩へと100%収束していくのだった。
私は手元のアイスコーヒーをすすりながら、心の中でクスリと笑う。
虚数空間を彷徨う二人の矢印が、本当の意味で交わる日は――きっと、まだまだずっと、先のお話。




