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理由はそのうち

「翔は黙っててぇぇぇぇ!!」


美緒先輩の絶叫が店内に響き渡り、彼女はそのまま真っ赤になった顔を隠すようにカウンターに突っ伏した。


その頭上を、サフランの店内に漂う香ばしいコーヒーの香りと、明らかに容量の足りていない恋愛の熱気が通り過ぎていく。


私は手元に運ばれてきたアイスコーヒーのストローを軽く混ぜながら、深いため息をついた。


(……なんで理学部の物理学科って、こういう極端な天然記念物ばっかり輩出するんだろう)


私の視線の先には、美緒先輩にどれだけ怒鳴られても、眉ひとつ動かさずに「?」と首をかしげている同輩――津島翔がいる。


今日の翔くんは、はっきり言って異常だった。


いつもは「それ、いつから洗ってないの?」と聞きたくなるような、よれよれのグレーのTシャツが彼の皮膚の一部みたいになっていたのに。今日の服装は、雑誌のストリートスナップみたいにしている。髪もちゃんと整えられていて、黙っていればモデルか何かに見えなくもない。


まあ、口を開けば一瞬でそのメッキは剥がれ落ちるわけだけど。


「なぁ、遥。翔のあれ、何が間違ってるんだ? シュレディンガー方程式って服のシワで計算変わんのか?」


隣で面白そうにニヤニヤしている文学部の三木くんが、小声で私に聞いてくる。私は冷ややかな視線を彼に向けた。


「変わるわけないでしょ。シュレディンガー方程式は微視的な量子状態を記述するための偏微分方程式。マクロな衣服のシワなんて、1ミリも干渉しないの。そもそも、服のシワごときで解が乱れるなら、全人類の物理学者は毎日アイロンがけに命をかけることになるわよ」


「なるほど、つまり今日もいつも通りの『翔バグ』ってことか」


「そう。ただの、物理の用語を使った壮大なファッションの言い訳」


私がバッサリ切り捨てると、翔くんは私の言葉を聞いていたようで、大真面目な顔でこちらを振り返った。


「遥、それは観測が不十分です。衣服の熱力学的なエントロピーと、僕の周囲の空間における波動関数の収束には、心理的な相関関係が存在する可能性が――」


「ないから。教授の前にそのレポート出したら、受理される前に破り捨てられるよ」


私が即座にシャットアウトすると、翔くんは「手厳しいですね」とだけ言って、また何事もなかったかのように手元の漫画に目を戻した。この男、自分のバグ理論が論破されても全く堪えないのが本当にタチが悪い。


だけど。


私は、いまだに耳まで真っ赤にして机に突っ伏している美緒先輩に視線を移した。


(問題は、こっちの文学部のマドンナよね……)


美緒先輩は、翔くんが適当に並べた「波動関数」だの「不確定性原理」だのという物理用語には、1ミリも興味がないはずだ。彼女が過剰に励起――じゃなくて、パニックになっている理由はただ一つ。


翔くんの、その「いつもと違う、完璧にデート仕様の格好」と、「理由はそのうち分かりますよ」という思わせぶりな台詞。


美緒先輩の脳内は今頃、その2つの事象が複雑に絡み合って、ありとあらゆる妄想の可能性が重ね合わせ状態になっているに違いない。


カウンターの隅では、後輩の香織ちゃんがスマホを片手に「最高のエンタメ」を見るような目で美緒先輩を観察してニヤついている。あの子、絶対に面白がって薪をくべてる。


「……はぁ」


私はもう一度、ストローで氷をカラランと鳴らした。


物理学科の人間として、翔くんのデタラメな量子力学バグには毎度イライラさせられるけれど。


それ以上に、この「どう見ても両片思いなのに、肝心の男側が天然すぎて矢印が虚数空間を彷徨っている」ような状況を見せつけられる方が、よっぽど精神的エネルギーを消費する。


「……ねぇ、翔くん」


私は、漫画のページをめくろうとする翔くんに、わざと少し意地の悪いトーンで声をかけた。


「その『綺麗な服を着て会う“人”』って、一体誰なの? 」


その瞬間、机に突っ伏していた美緒先輩の身体が、ピクッと明らかに硬直した。耳を極限までそばだてているのが丸わかりだ。


翔くんは、漫画からゆっくりと顔を上げると、相変わらずのポーカーフェイスで私たちを見回した。

そして、翔先輩は何気なく言った。


「……まあ、理由はそのうち分かりますよ」



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