初デート?
ランチタイムが過ぎ、いつもの軽快なジャズが流れる喫茶『サフラン』のカウンターで、私は深いため息をつきながらグラスを拭いていた。
「じつに美しくて、美緒さん」
「えっ……!?」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。美しくて、美緒さん!?
唐突なストレートすぎる褒め言葉に、私の脳内は一瞬でパニックに陥った。
な、何よ急に! ついに私のマドンナオーラが脳みそ筋肉の理系オタクにも通じたっていうの!? 告白!? 令和の告白なのこれ!?
期待で胸を破裂させそうにしている私に、翔は淡々と続けた。
「美緒さんがはたいたエプロンの粉塵に、西日の光の筋がきれいに浮き上がる『チンダル現象』を見ていました。コロイド粒子の光散乱がじつに美しい。光学の神秘ですね」
「粉塵を褒めたのね! この美しい私が目の前にいながら粉塵を褒めたのね!」
一瞬で天国から地獄へ叩き落された。
そんな鈍感の極みのような理系オタクの横顔を見ていたら、文学部心理学科としてのプライドと、乙女としてのじれったさが限界を迎えた。
私はグラスを置き、カウンター越しに翔を上から覗き込むようにして、ちょっと意地悪な微笑みを浮かべた。
「ねえ、翔。あなたにとって『デート』の定義って、一体何かしら?」
さあ、心理学科の高度な誘導尋問よ。かかってきなさい。
翔はスプーンをピタリと止め、少し考えてから、大真面目な顔で答えた。
「デートの定義……。まあ、男女が2人でどこかに行くことじゃないですか? ……あれ?
そう考えると、こうやって今、僕がサフランで美緒さんと話しているのも、ある種のデートに該当するのかな?」
(なっ……!!!!)
本日二度目の脳内爆発。
この至近距離で、日常の会話を「デートかな?」なんて首を傾げながら言われる恐怖を少しは考えてほしい。
私の脳内ではすでに、ジューンブライドのチャペルの予約と、子供の名前の選定までスタートしていた。
しかし、翔の脳内ブレインストーミングは止まらない。
「あ、いや、待てよ。やっぱり外に出ないとダメか。外で2人で歩くこと……。あ、そうか! じゃあこの前のあの居酒屋は、僕と美緒さんの『初デート』という事象に定義されますね」
「ふぇっ!?」
ふと、あの理系飲み会へ行く前の「駅前の薄暗い路地裏を、2人で並んで歩いた時間」が脳裏をよぎる。
(……待って。よくよく考えたら私、翔とプライベートで、夜に、2人きりで歩いたのって……あれが初めてじゃない?)
ガタッと手が止まる。
あいつ、あの夜の最後には「もう美緒さんがいないと生きていけない」とまで言ってくれた。
(それって、世間一般で言う……初デートじゃん!!!!)
気づいた瞬間、あの夜の己の醜態がフラッシュバックした。
天文学的なレベルで冷静になってみれば、あれは「平日の夜に、学校帰りに2人きりで待ち合わせて食事に行く」という、客観的に見れば完全なる「2人の初デート」だったのだ。
**なのに、当日の私の脳内ときたらどうだ。**
**三木くんを女性と誤認して嫉妬の炎を燃やし、遥さんと翔の関係性を勝手に邪推し、最後は他の男子からの黄色い声(これはマドンナとしては日常茶飯事だけど!)に鼻高々になっていたあの夜。
感情のジェットコースターが全速力でループを繰り返していたせいで、当時の私は「あれがデートである」という客観的事実に、1ミリも気づけていなかったのだ。**
私は喉の奥から、学園のマドンナらしからぬ、カエルの潰れたような変な声が出た。
「だ、デート……!? あれが」
「はい。だって、サフランっていうお互いのコミュニティ以外で、初めて2人きりで目的地に向かったわけですし。楽しかったです、僕たちの初デート」
翔はいつもの平熱のまま、さらりと核爆弾級の言葉を口にする。
(あ、あれが初デートだって……認めた……!? 翔の口から『僕たちの初デート』って言ったわよね!?)
その瞬間、私の脳内でビッグバンを遥かに超える超新星爆発が起きた。
心拍数は臨界点を突破してバックバク、顔面は茹で上がったカニのように真っ赤。
どうしよう、あいつ、やっぱり無自覚に私を殺しにきている――!
しかし。
私の甘く美しい脳内銀河は、続く翔の気楽な一言によって、一瞬にして絶対零度まで急速冷却されることになる。
「あ、ということは。もしこれがデートなら――香織とサフランに来ることも、デートってことになりますね」
「………………………………は?」
私の全細胞がピキッと凍りついた。脳内のチャペルが粉々に崩れ落ちていく。
香織ちゃんといえば、翔にとってはクローバーのかわいいバイトの後輩だけど。もちろん私も大好きで恩もある娘だけど――それとこれとは話が10億光年くらい違う。
――香織と、デート。
――この天然理系男、私がせっかく宇宙一ハッピーな気分に浸っていた『2人の初デート』の特別感を、一瞬でただの「移動の数式」に落とし込みやがった……!!
「……翔」
「はい?」
「ちょっと表に出なさい。心理学科の先輩として、あなたのそのバグり散らかした認知構造を、根本から、原子レベルで徹底的に『修正』してあげるわ……!!」




