サフランの新しい日常
昼下がりのサフラン。
カウンターの奥では、美緒先輩がいつものようにグラスを磨いている。
その横顔は相変わらず“看板娘”の名にふさわしい美しさで、常連のおじさんたちがこっそり見惚れているのが分かる。
でも私は知っている。
この人、恋愛になるとIQが溶ける。
(今日も面白いものが見られそう……)
私はニヤニヤしながらドアを開けた。カラン、とベルが鳴る。
「こんにちは、美緒先輩〜。今日も来ちゃいました」
「か、香織!? なんで今日も……いや、来てくれて嬉しいけど……!」
美緒先輩、声が裏返ってる。ほんと分かりやすい。
カウンターには常連の翔先輩が座っていて、週刊漫画を真剣な顔で読んでいた。(今日も平常運転)
私はその隣に座り、美緒先輩に声をかける。
「美緒先輩、今日なんかソワソワしてません?」
「そ、そんなことないわよ!? べ、別に……!」
(ある。絶対ある)
そのとき、ドアが再び開いた。
「お、香織。席空いてる?」
三木先輩と遥さんだ。二人は2回目とは思えない自然さでテーブル席へ向かう。
美緒先輩は一瞬だけ遥さんを見て、その目が一瞬で“警戒モード”に入ったのを私は見逃さなかった。(あー……まだ昨日の『翔呼び』誤解してる)
私はわざとらしく、店内に響く声を出した。
「遥さん、今日も可愛いですね〜。三木先輩、相変わらず見る目ありますね」
「だろ? 俺の自慢の彼女だからな」
「ちょっ……俊、そういうの店で言わないで……!」
美緒先輩の手が、ピタッと止まった。
「……え?」
(きた)
私はゆっくり美緒先輩の方を向く。
「言ってませんでした? 遥さんと三木先輩、普通に付き合ってますよ」
「…………………………は?」
美緒先輩の顔から、音が聞こえるほど血の気が引いた。
「つ、つ、つ、つき……あ……っ!? えっ!? ええっ!? Japan!?」
遥さんがテーブル席から慌てて手を振る。
「え、えっと……はい、一応……その……」
美緒先輩はカウンターに手をつき、ガタガタと震える声で言った。
「ちょ、ちょっと待って……じゃあ……昨日の“翔呼び”は……?」
「え? 入学式の時、俊と翔くんが『遥』って呼んでくれたから、私も……」
「………………」
(美緒先輩、完全フリーズ)
私はすかさず耳元で追撃を入れる。
「美緒先輩、もしかして……遥さんが翔先輩を狙ってるとでも思ってたんですか?」
「き、気にしてない!! してないってば!!」
「へぇ〜? じゃあなんでそんな真っ赤なんですか?」
「ち、違うの!! これは……その、知恵熱が……!」
「大人が知恵熱出さないでください。可愛すぎます」
遥さんがテーブル席から呆れた声を上げる。
「……なんでこの喫茶店、こんなにカオスなの……?」
三木先輩は笑いながら肩をすくめた。
「まあ、これがサフランの新しい日常だよ」
◆
しかし、ここからが本番だった。
恥ずかしさのあまりカウンターの下に沈没しかけている美緒先輩を、それまで漫画を読んでいた翔先輩が、本を閉じてじーっと見つめ始めたのだ。
美緒先輩も視線に気づき、さらに顔を真っ赤にする。
(お、今度はそっちの誤解に突入ですか?)
美緒先輩は消え入りそうな声で言った。
「な、なに……翔……なんで見て……」
翔先輩は至って真顔で、とんでもないことを言い出した。
「美緒さん。髪の毛……綺麗に帯電してますね」
「…………………………は?」
翔先輩は立ち上がり、真剣な顔で美緒先輩の頭を覗き込む。
「この静電気……すごいです。クーロン力による電場の向きが、視覚的に理解できるレベルで綺麗に立ってます。初期条件が完璧なんだ」
美緒先輩が顔を覆って叫んだ。
「翔は黙っててぇぇぇぇぇぇぇ!!」
私は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。最高すぎる……!
遥さんが頭を抱える。
「……なんでこの人、恋愛フラグが立ちそうな空気の中で、電場の話してるの……?」
「翔だから」
「『翔だから』で全部片付けないで俊!!」
美緒先輩はもうカウンターの陰に丸まって、消えてしまいたいように頭を抱えている。
「わ、わ、私……ひとりで勝手に嫉妬して……バカみたい……」
私はそっと美緒先輩の肩に手を置き、悪魔の囁きを添えた。
「美緒先輩。翔先輩、美緒先輩の可愛い嫉妬じゃなくて、“髪の毛を観察してただけですよ?」
「………………………………(チーン)」
美緒先輩の脳内で、ビッグバンを超える超新星爆発(本日2回目)が起きた。
そんな乙女心など露知らず、翔先輩は世界の真理に到達したような満足げな顔で頷いている。
「美緒さん、あの帯電……本当に美しかったです」
「だから翔は黙っててって言ってるでしょぉぉぉぉ!!!!!」
ついに遥さんの、喉がちぎれんばかりのツッコみが店内に響き渡った。
「……なんなのこの店!! 毎回毎回、情報量が多すぎるのよ……!?」
三木先輩はコーヒーをすすりながら、嬉しそうに笑った。
「だから言ったろ。これがサフランの新しい日常だって」
私はカウンターに肘をつき、真っ赤になって完全崩壊している美緒先輩を眺めながら、確信した。
(今日も最高のエンタメだった……よし、明日も絶対来よ!)




