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ねっとりした絡み

金曜の夜、俊に連れられて入った洋風居酒屋『クローバー』。


そこにいたのは、普段のヨレヨレな姿からは想像もつかない、糊の効いたシャツと蝶ネクタイでビシッと決めた翔だった。


(……え、ちょっと待って。翔、バイトの時はこんなにカッコいいの!?)


身内の意外なギャップに戸惑う私に、翔のバイト後輩だという山下香織ちゃんが、「獲物を見つけた」と言わんばかりの実にいい笑顔で距離を詰めてきた。


「ねえ遥さん。知ってます? 翔先輩って、バイト中もいっつも“美緒さん”って人の名前を呟いてるんですよ?」


「えっ……!?」


心臓が跳ねた。美緒さん!?


あの、美緒さんをただの『ご飯をくれる人』としか認識していなかった翔が?


香織ちゃんは、私の反応を見てほんの一瞬だけ、


“あ、刺さった”


と言わんばかりに目を細めた。(……この子、絶対わざとだ)


「そうなんです。“美緒さんの、あのねっとりした絡み具合が忘れられない……”って、こないだも遠い目で呟いてて」


――ちょっと待って。


“ねっとりした絡み具合”……!?


(嘘でしょ!? ついに翔が、美緒さんのあの執念のアプローチに気づいたの!? っていうか気づいたどころか、もうそんな……そんな一線越えたみたいな、男の顔で思い出を語っちゃう関係になってるのーーー!?)


私の脳内は、一瞬にして『おめでとう美緒さん!! 執念が実ったね!!』という大祝福のスタンディングオベーションと、あまりの急展開へのパニックで大火事になった。あの鉄壁の天然をここまで狂わせるなんて、美緒さん一体どんな勝負に出たの!?


香織ちゃんは、私の混乱を観察して楽しんでいるような、小悪魔みたいな笑みを浮かべていた。やっぱりこの子、絶対わざとだ!!


驚愕と興奮で息が止まりそうになっている私に、当の翔がカウンターからひょこっと顔を出した。


「そうだよ。美緒さんのナポリタンのソースの乳化の話。あれ、油と水が仲良しなんだ。ずっとケンカしないの。すごいよね」


「………………は?」


ナポ……リタン?


ソースの、乳化……?


一瞬、何を言われたのか分からなくて脳が完全にフリーズした。


『ねっとりした絡み』って……パスタのソースと麺の絡み具合のこと……!?


(……やっぱりパスタの話かよーーーーー!!!!)


全力で「美緒さんやったね!」って感動の涙を流しかけた自分が、地球がひっくり返るほど恥ずかしい。


知ってた。翔の頭の中が『美緒さん=ナポリタンの人』で固定されてることなんて、細胞レベルで知ってたはずなのに! 一瞬でも「翔の恋愛フラグが立った!」なんて期待した私が大バカだった!! 美緒さんごめん、この男相変わらず微塵も気づいてないわ!!


「あははは! 遥さん、最高です!」


隣でおなかを押さえて笑っている香織ちゃんを見て、ようやく「ハメられた」と気づいた。最初からこれが目的だったのね、この小悪魔……!


だが、恥ずかしさと美緒さんへの同情で悶える私を置き去りにして、翔はさらに真顔で、何やら壮大なトーンで語り始めた。


「乳化ってね、油と水のスピンが同期すると起きるんだよ。パスタの表面から出る“白いやつ”が、量子レベルで仲裁してくれるの。だからナポリタンは分離しない。初期条件が完璧なんだ」


(※もちろん全部間違っている)


「いや、量子とか関係ないでしょ!! お前のナポリタンのスケールどうなってんだよ!!」


恥ずかしさが限界突破した結果、気づけば喉がちぎれんばかりのツッコミを炸裂させていた。物理の法則まで歪めてナポリタンを語るな!


「遥さん、最高です。私、遥さんのこと大好きになっちゃいました!」


「……山下さん。お願いだから誰か私に、このコミュニティの取扱説明書をちょうだい……」


私は両手で頭を抱えた。美緒さんの恋路の険しさを改めて思い知って、胃が痛い。


当の本人は、もう世界の真理に到達したような満足げな顔で、メニューの裏のカロリー表示を凝視している。


(……なんなの、この店。サフランだけでもお腹いっぱいなのに、クローバーまでこれって……私のツッコミ担当の喉、これから絶対に持たない……!)


めまいを覚えながらも、私の心は、どうしようもない賑やかさへの予感で、ほんの少しだけ震えていた。


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