美緒さんはハッピーオーラ全開
昨夜の居酒屋での激闘から一夜明けた喫茶『サフラン』で、私はそわそわと――しかし優雅に――グラスを磨いていた。
(「美緒さんがいないと生きていけない」……ふふん。思い出すだけで顔が熱くなるじゃない。あの翔が、みんなの前であんな大胆な告白をするなんて)
今日あいつがのんきに店へ来たら、どんな顔で迎えてあげようか。
そんな甘い妄想をしていたところで、カラン、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、水野遥さん。昨夜の席で妙におしゃれで、私の恋愛センサーに引っかかった子だ。
「美緒先輩、こんにちは。あの、翔はもう来てますか?」(……えっ!?)思わずグラスを拭く手が止まった。
いま、この子、あいつを“翔”呼びした……?「つ、津島くんなら、まだ来てないけれど……」平静を装って名字呼びで返した瞬間、再びドアベルが鳴る。
「ちわーす。美緒先輩、本当に来ちゃいました!」三木俊くん。そしてその後ろから、いつもの常連・翔。
「いらっしゃい。……って、ちょっと翔! あんたはそっちのテーブル席に――」
「美緒さん、三人でカウンター座っていい?」三木くんの一言で、三人はカウンターに並んだ。
私は「どうぞ」と微笑みながら、内心では水野さんと翔の距離感にヒヤヒヤしていた。
そんな中、三木くんが爆弾を落とす。
「翔のやつ、本当に“美緒さんがいないと生きていけない”って、ラウンジでも毎日のようにのろけてるんですよ?」
――の、のろけてる……!? 毎日……!?危うくピッチャーを倒しそうになるのを、私は奇跡の精神力で耐えた。
翔を見ると、三木くんに小突かれながら、じーっとこちらを見ている。
(ちょっと……! 二人とも気が利きすぎじゃないの……!)
「ちょ、ちょっと誤解しないでよね! 翔はただの、手のかかる常連んだから!」
私はメニュー表で真っ赤な顔を隠した。
脳内では外堀が埋まる音が鳴り響いている。
「? 美緒さん、顔が真っ赤ですよ。
店内のエントロピーでも計算してのぼせましたか?
今日も例のやつ、大盛りでお願いします」
(……バカ……!)
「そこまで言うなら、特別に美味しく作ってあげるわよ!」
私は厨房へ逃げ込んだ。
胸の鼓動がジャズをかき消すほど鳴っている。
(見てなさいよ、水野さん、三木くん。私たちはもう、抗えない引力で――)
***
カウンターに残された三人のうち、一人は完全に固まっていた。
(えっ……ええええええ!?)
遥は、さっきから理解が追いついていなかった。
俊から「翔が面白い喫茶店に篭ってる」と聞いて来てみれば、そこには大学のマドンナ・美緒先輩。
しかも、先輩は“翔”の名前を聞いた瞬間、怯えたように目を見開いた。
(ただの生存確認しただけなのに……。物理学科の変人ペット枠として……)
さらに、俊の軽口一発で、美緒先輩はメニュー表で顔を隠して真っ赤。
耳まで真っ赤。
(いやいやいや。そもそも翔がラウンジで言ってたの、“サフランのナポリタンがないと生きていけない”だからね!? 主語が違うの!!)
翔を見ると、美緒さんが厨房に引っ込んだあとも、彼はまったく動かず、ある一点を凝視していた。
視線の先には、ポットから立ち上る湯気。
……ああ、なるほど。
多分あれ、“層流から乱流に切り替わる瞬間”でも観察しているつもりなのだろう。
(……視線のロックオン先、そこ!?)
──『も、もう! 翔のバカ……! 特別に美味しく作ってあげるわよ!』
さっきの美緒先輩のセリフが、遥の脳内でリフレインする。
美緒先輩は、まるで新妻のような甘いオーラを放ちながら厨房へ。
(えええええええええええ!?)
翔の「飯よこせ」ロボット発言で、なぜあんな幸せそうに……?
「な? 遥。あいつら、完全に付き合ってる距離感だろ?」
俊がドヤ顔で囁く。
遥は、厨房で幸せそうにフライパンを振る美緒先輩と、すでに週刊少年漫画に夢中の翔を見比べた。
(……新手の、宇宙規模のコントだ……)
サフランでの日々を思い、遥は早くも頭を抱えた。




