嫉妬
平日の昼下がり。ランチタイムのピークが過ぎた喫茶『サフラン』の店内に、いつものように軽快なジャズが流れていた。
カウンター席では翔が、めずらしく熱心にスマホの画面をタップしている。
私が何気なくお冷やを注ぎに近づいたその瞬間、あいつのスマホの画面に一通の通知が滑り込んできた。
『ミキ:次のランダウ・リフシッツの会、翔も来るよね?』
――ミ、ミキ……!?
私の脳内に、突如としてけたたましい非常警報が鳴り響いた。
ランダウ・リフシッツの会は物理学科の単なる飲み会とは聞いているが、女がいるとは聞いていない。それも呼び捨てでなれなれしい。誰よそのカタカナ二文字。
「また、例の集まり? 女の人も来るの?」
「うん、物理学科でも女の子は居るからね」
あいつ、私という大学のマドンナ(しかも年上!)がいるのに、「ミキ」なんて女とコソコソ連絡を取り合っていたわけ!?
「へえ……ずいぶんと楽しそうに連絡を取り合ってるじゃない。その、ミキって人と仲がいいの、翔?」
「……ん? ああ、ミキか」
翔は顔色一つ変えず、スマホに指を走らせたまま答える。その態度が、私のイライラをさらに加速させた。動揺のひとつも見せないなんて、もしや浮気の常習犯?
私の脳内で、嫉妬の炎がメラメラと巨大なキノコ雲を形成していく。あの時、翔から「ランダウ・リフシッツの会に一緒に来ませんか」と誘われたのを、**「ランダム・リフレッシュ? ……スワッピングなんて不潔よ!」**と即座に突っぱねた自分の判断が、今さらながら悔やまれる。あの中に入り込んでいれば、ミキの顔を拝んで品定めしてやれたのに。
「……ミキって、どんな人なの?」
努めて冷静な「大人の先輩」を装い、お冷やのグラスを強く握りしめる。
「んー、まあ物理学科ですけど。めちゃくちゃ詳しいですよ。あいつの知識量にはいつも助けられてるし、あいつがいないと俺の単位も本当に危ういんで。最近は夜通し……いや、深夜まで深い話することもあるかな」
翔はぼんやりと空を見上げ、独り言のように呟く。
――夜通し!? 深い話!?
視界が真っ赤に染まるのが分かった。物理学科の男なんて、みんな理屈っぽい変人ばかりだと高を括っていたけれど、まさかそんな風に女を口説いているなんて。しかも、翔のような理系劣等生が、どうしてそんなに女を惹きつけるのよ!
「そう……随分と親密なのね」
「まあ、腐れ縁っていうか。時たまアイツの部屋に泊まったりしてるよ」
時たま、部屋に、泊まってる。
――終わった。完全に一線を越えてるじゃないの……!!
(……許さない。たとえ単位と引き換えに翔を篭絡していようと、私の翔に近づく雌猫には、文学部心理学科の洗礼を受けさせてやるんだから……!!)
こうなったら、敵陣に直接乗り込んで実態を暴くまでよ!
「ねえ、翔。今後のそのランダウなんとかの会、私も参加していいの?」
「もちろんです! ミキも喜びますよ」
笑顔で快諾する翔の後ろ姿を睨みつけながら、美緒は厨房の端へ移動し、般若のような顔で拳を握りしめた。まだ見ぬ強敵ミキへの復讐の炎が、彼女の身体からオーラとなって立ち上っている。
一方カウンターでは、翔がピリピリとした店内の空気に首を傾げていた。
「美緒さん、急にどうしたんだろ。もしかして、店内のエントロピー(乱雑さ)が急上昇したのかな……」
宇宙の真理より遠い勘違いをしながら、翔はのんきにパフェのコーンフレークを突ついていた。
(第21話終わり)




