Aカップは上級口説きテクニック!?
学生街の喫茶『サフラン』の午後3時は、気だるい西日とコーヒーの匂いに満ちている。
カウンターの奥でグラスを拭きながら、私は数日前のあの出来事を反芻していた。
あの日、大盛りのナポリタンを出した私に向かって、あの冴えない後輩・津島翔は言い放ったのだ。
『……なんだか、お母さんみたいだなあ』
(お母さん……つまり、家庭における【妻】の呼び方! あんな素っ気ない顔をしておきながら、すでに私との将来の結婚生活まで妄想しているなんて……!)
しかし、恐ろしいのはそこからだった。
彼はそれ以上何も口にせず、すました顔で漫画の続きに没頭したのだ。
『妻』と呼んで私の心を激しく揺さぶっておきながら、直後に放置プレイ。
(……間違いないわ。あれこそが計算され尽くした『ネガティブ・アプローチ』よ……! 一度甘い将来を匂わせてから突き放し、私のプライドとペースを乱す罠ね。あのヨレたTシャツも油断を誘うカモフラージュ……彼、幾多の戦場をくぐり抜けてきた『恋愛心理の魔術師』だわ……っ!)
そう。私の脳内において、ただの無頓着な後輩だった翔は、すでに「国家レベルの凄腕ハンター」へと昇格していたのである。
「……よし。ならば、こちらから仕掛けてあげるわ」
私を手の上で転がしている気でいるハンターの仮面を剥ぎ取り、慌てふためく凡人の顔を拝んでやる。
そのための完璧な「罠」を、私は用意していた。
カランコロン。
「いらっしゃい」
「あ、すんません。アイスコーヒー、いつものやつで」
ドアが開き、噂の男がやってくる。彼は私の視線など1ミリも気に留めず、いつもの席で速攻で週刊少年誌を開いた。
(フン、相変わらずポーカーフェイスが板についているわね……。でも、それもここまでよ)
トレイを手に、私はあえてゆっくりとした足取りで彼の席へと向かった。
コト、とグラスを置いた。翔の視線はまだ漫画の1ページ目だ。
私はすっと身を屈め、妖艶で、どこか悪戯っぽい「お姉さん」の声を絞り出した。
「ねえ、翔くん」
「……ん? なんすか?」
「翔くんって、いっつも一人でここに塾帰りの小学生みたいに居座ってるじゃない? 寂しそうだからさ……私、可愛い友達紹介してあげようか?」
――勝った。心の中で激しくガッツポーズをする。
このセリフは、恋愛における最強の踏み絵だ。
もし翔が自分に気があるのなら、ここで激しく動揺し、「いや、僕には美緒さんが……」とか、「そんな、先輩以外の女の子には興味ありません」と、顔を赤らめて本音を白状するはずなのだ。
さあ、どう来る? 凄腕のハンターさん。
翔はピタリと漫画を読む手を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。その目は丸く見開かれ、驚きに満ちていた。
「えっ……! 本当すか!?」
「……え?」
私の思考回路が、ガガガと異音を立ててフリーズした。
翔の顔は、私の予想した「気まずい動揺」ではなく、純粋無垢な、駄菓子屋のくじに当たった少年のような輝きを放っていた。
「めちゃくちゃ紹介してほしいです! 俺、大学入ってからバイトと漫画の往復だけで、女の子の連絡先、実家のオカンと姉貴しか登録されてないんすよ! マジすか美緒さん、神!」
「……は? え? あ、ええ……?」
ノリノリである。
100%の善意と期待を込めて、翔は身を乗り出してきている。
私の完璧なシナリオが、音を立てて崩れ去っていく。
(な、何よこれ……!? どうしてそんなに大喜びしてるのよ! 普通はそこで私に気を遣って、ちょっとは否定するものでしょう!?)
プライドを粉々にされた私は、みるみるうちにパニックに陥った。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「へ、へえ……。やっぱり男の子だもんね。そういうの、興味あるんだ……。じゃ、じゃあさ、どんな子がタイプなわけ? ほら、この雑誌の表紙みたいな、グラマーな子とか?」
苦し紛れに、翔が机に置いていた週刊誌の表紙をバシッと指差す。
そこには、水着姿で豊満なバストをこれでもかと強調した、今をときめく巨乳グラビアアイドルの写真が印刷されていた。
これならどうだ。男なんて、こういう分かりやすい身体に目を奪われる生き物なのだ。そうやって俗っぽい本性を現せばいい。
しかし、翔は表紙のグラドルを一瞥すると、心底めんどくさそうに首を横に振った。
「あー……。いや、こういう子はちょっと苦手なんすよね。なんていうか、胸が大きすぎる人って圧迫感あるじゃないですか。僕はもっと、こう……スラッとしてて、スレンダーな子の方が断然好みなんです。胸なんて、むしろ無い方が綺麗っていうか、Aカップくらいが一番最高じゃないですか?」
「…………っっっ!!!!」
パシィィィン!! と、脳内で限界突破のアラートが鳴り響いた。
(エ、Aカップ……!? ス、スレンダー……っ!?)
まさかのピンポイント爆撃。
何を隠そう、大学一のマドンナと謳われる木崎美緒の、唯一にして最大のコンプレックス。それが、モデル並みの高身長に対して、いささか慎ましすぎる「Aカップの激スレンダー体型」だった。
顔が耳の裏まで真っ赤に染まっていく。
私の脳内コンピューターは、この想定外の事態を処理するために、ものすごい速度で「ウソの計算」を弾き出し始めた。
――『可愛い友達を紹介する』という罠に対し、あえて乗っかることで私の嫉妬心を煽った。
――その上で、タイプを聞かれた瞬間に、私の最大の特徴である「Aカップ・スレンダー」をピンポイントで指名してきた。
つまりこれは、「俺が好きなのは、今ここにいるお前(美緒)だ」というメッセージを、遠回しに、しかし確実に突きつけているのだ……!
(な、なんて恐ろしい男……!! 『グラドルより、お前の方が最高だ』って、私の体型を完璧に狙い撃ちした上級口説きテクニックじゃない……っっ!!)
「美緒さん? 顔真っ赤っすよ? エアコン、温度下げます?」
邪心ゼロの、純粋に心配そうな目で覗き込んでくる翔。
その「無邪気な獲物を狙う目(と私には見える)」に耐えきれなくなって、私はトレイを胸に抱きしめ、ガタガタと震えながら一歩後ろに下がった。
「な、何言ってるのよバカじゃないの!? うちのエアコンは年中26度固定よ!! 誰がアンタなんかに女の子を紹介するもんですか! バカ! 鈍感! 漫画読んでないで、さっさとコーヒー飲み干して頭冷やしなさいよねっ!!」
「えぇーっ!? 紹介してくれるって言ったのに! 理不尽すぎる!」
理不尽に怒鳴られ、本気でショックを受ける翔を置き去りにして、私は逃げるようにカウンターの奥へと引きこもった。
胸元をぎゅっと押さえる。心臓のバクバクが止まらない。
(あぶなかった……。もう少しで、あの涼しい顔をしたハンターの術中に嵌まるところだったわ……。なんて底知れない後輩なのかしら……っ)
カウンターの影で、一人顔から火を吹きそうになっている私。
窓際で、「やっぱり、綺麗な人は気まぐれでめんどくさいなぁ」と、すぐに漫画に目を戻す翔。
私の壮大なる勘違いの羅針盤は、狂ったようにさらに速度を上げて回り始めていた。
しかし、私はまだ知らない。
自分が「文学部心理学科」で学んできた高度な学問が、次回、この勘違いをさらに『国家規模の壮大な妄想』へとバグらせていく引き金になるということを――。




