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アイスコーヒーと、大盛りナポリタンの距離

カランコロン、と少し間の抜けたドアベルの音が店内に響く。


地方都市の片隅、大学の裏手にある学生街。そこだけ時代から取り残されたようなパブ喫茶『サフラン』のドアを押し開けて、一人の男の子が入ってきた。


大学の後輩、津島 翔だ。


ヨレたTシャツに、お世辞にもお洒落とは言えない無造作すぎる髪。クラスの集合写真でも後ろの方にひっそり写っているような、どこにでもいる冴えない男の子だ。


彼は店に入ると、マドンナである木崎美緒の顔をまともに見も見ず、いつものようにカウンターのいちばん端の席へと滑り込んだ。そして、慣れた手つきで店のマガジンラックから、今日発売されたばかりの週刊漫画雑誌を引っ張り出す。


翔が毎日この店に通いつめる理由。それはただ一つ。


「アパートから一番近くて、コーヒー1杯の値段で週刊漫画雑誌の最新号が読めるから」


それだけだった。


普通なら、こんな冴えない男の子が大学一の美女に相手にされるはずがない。翔自身、美緒のことは「まあ、おまけ程度に美人なお姉さんがいるな」くらいにしか思っていない。恋愛感情など、ハナから1ミリも無かった。


しかし、カウンターの表と裏では、見えている世界がまったく違っていた。


グラスを磨きながら、美緒はチラチラと翔のちょっと寝癖のついた頭を見つめていた。


(またそんなトボけた顔して……。毎日毎日、私の顔を見るためだけに、講義が終わるやいなやこの店に走って通いつめるなんて。翔くんってば、本当に私のことが大好きなのね)


美緒は大学のマドンナだ。色々な男の子から毎日のように告白されている彼女にとって、男の子が自分を好きになることは「当然」の日常だった。


最初は翔のことも、ただの「パッとしない普通の後輩」としか思っていなかった。なのに、彼は毎日通ってくるくせに、一向にデートにも誘ってこない。(もちろん、誘われても上手く断るつもりだけど)。


(……普通なら、少しくらい口説いてきてもいいはずなのに。もしかして、わざと私を焦らせるために素っ気なくしてるの? 恐ろしい男……!)


気づけば美緒のほうが、彼の動じない態度が気になって仕方がなくなっていた。ちょっと思わせぶりな態度で口説いてほしいのに、彼は漫画から目を離しもしない。


カチャ、と小気味いい音がして、美緒は翔の目の前にトレイをドンと置いた。


「はい、お待ち遠さま」


「えっ……?」


翔が漫画から目を上げると、そこには頼んだはずのない、湯気を立てる大盛りのナポリタンがあった。


「あの、美緒さん? 僕、アイスコーヒーしか頼んでないんだけど……」


「いいのよ、食べなさい」


美緒はそっぽを向いて、少し耳を赤くしながら布巾でカウンターを拭き始める。


「どうせお昼食べてないんでしょう? ちゃんと食べなきゃダメよ」


(これだけ特別扱いしてあげているんだから、翔くん、そろそろ白状したらどうなの?)


「あ、ありがとう……。美緒さん、お母さんみたいだなあ」


翔はそんな美緒の健気な内心など露知らず、「ラッキー、大盛りだ」とノンシャランな気持ちでナポリタンを頬張っている。彼の目は、すでに手元の漫画の続きに戻っていた。


どんなに思わせぶりな態度をしても、1ミリも動じずに漫画を読み続ける翔。


美緒の胸の奥で、カチリと勘違いのスイッチが入る。


(なっ……! 私がこんなにサービスしてあげているのに、この落ち着きぶりは何……!? イケメンでもない、地味で普通の男の子のはずなのに、この大人の余裕……。やっぱりこの男、ただ者じゃないわ。相当、女慣れしている凄腕のハンターね……っ!)


普通なら絶対にあり得ない。なのに、美緒の恋心は「女慣れしている男」という壮大な勘違いと共に、どんどん加速を始めていた。


「美緒さん? どうかしました?」


「な、なんでもないわよっ!!」


顔を真っ赤にしてフイッと店の奥へ逃げていくマドンナの後ろ姿を、僕はただ首を傾げながら見送るしかなかった。


(美緒さん、本当に怒りっぽくて、時々めんどくさいなあ。……まあ、いいや。漫画の続き読もう)


僕はまた、何事もなかったかのように、店から借りた週刊誌を開いた。


二人の間の勘違いの距離は、今日もまた、愛おしいほどに狂っている。


美緒の勘違いは、この日を境にさらに加速していく。


(第1話・終わり)

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