マドンナの防衛本能
「冷静になりなさい、木崎美緒」
サフランの閉店後、美緒はカウンターに突っ伏し、お気に入りの細身の万年筆を指先で弄んでいた。
BGMの切ないジャズだけが、無人の店内に響いている。
ここ数日、美緒の頭の中はあの冴えない後輩――翔のことで占められていた。
バイト中も、仕込み中も、お気に入りのブランドの洋服を選んでいる時でさえ、ふとした瞬間にあのヨレたTシャツと無造作な寝癖が脳裏をよぎる。
大学一のマドンナと謳われ、数々のエリートやイケメンからのアプローチを涼しい顔でいなしてきたこの私が、なぜあんな、クラスの集合写真の端っこにいるような男に振り回されているのか。
「これは恋なんかじゃない。純粋な『精神医学的・心理学的』な興味よ」
美緒はお洒落なインクが詰まった万年筆を開き、伝票の裏にサラサラと美しい文字で『翔くん分析シート』と書き殴った。彼女は大学の講義で習ったばかりの心理学用語を総動員して、この異常事態を解明しようと試みたのだ。
【木崎美緒による、自己防衛のための客観的(?)分析】
仮説①:『ツァイガルニク効果(未完成効果)』による錯覚 男たちはいつも、私に気に入られようと必死で口説いてきた。しかし、翔くんだけは私のカマかけ(友達紹介の罠)を完璧にスルーし、あろうことか「漫画」と「アイスコーヒー」に夢中だった。 人間は、手に入らない未完成のタスクほど執着してしまう生き物。つまり、私は彼に恋をしているのではなく、「私を無視した唯一の男」という未解決の謎を解き明かしたいだけなのだ。
仮説②:『認知的不協和』の解消行動 「大学一のマドンナである私が、冴えない男を気にするはずがない」という認知と、「現にめちゃくちゃ気にしている」という事実。この矛盾(不協和)を解決するために、私の脳が勝手に「私は彼が好きなんだ」というウソの感情を捏造して、心のバランスを取ろうとしているに過ぎない。
仮説③:『吊り橋効果』の変形 前回の「Aカップ・スレンダー最高」発言。あれは私のデリケートな体型を完璧に狙い撃ちした上級テクニックだった。あの瞬間、私の心拍数が跳ね上がったのは恐怖と驚きによるもの。それを脳が「恋のときめき」と勘違いしただけ。
「ふぅ……」
書き終えた美緒は、髪をかき上げ、満足げに深いおためごかしのササヤキを漏らした。
「そうよ、すべて証明されたわ。私は彼を好きなんじゃない。彼の異常なまでの『女慣れしたサイコパス的恋愛心理術』に、私の脳の防衛本能が警戒アラートを鳴らしているだけ。あーすっきりした。謎はすべて解けたわ」
自分の完璧な論理的思考に酔いしれ、美緒はふふっと美しい微笑を浮かべた。恋に落ちた凡百の女子大生とは違うのよ、と。
しかし、そのとき、美緒はある重大な一文に目を留めてしまった。
『胸なんて、むしろ無い方が綺麗っていうか、Aカップくらいが一番最高じゃないですか?』
脳内で、翔のあの濁りのない、まっすぐな声が再生される。
(……待って。もし、もしもよ?)
美緒の脳内コンピューターが、再び狂ったように勝手な計算を始め、またしても最悪のウソを弾き出した。
(彼はサイコパスでも何でもなく、ただ単に、最初から私のすべて――このスレンダーな体型も含めて、心の底から『最高だ』と思って、ただ一途に私の前に通い詰めているのだとしたら……?)
あえて口説かないのは、私という高嶺の花を傷つけないための、彼なりの不器用で、命がけの敬意だとしたら……?
「……ッッッ!!!!」
自分で立てた仮説が、一瞬で「翔くんの純情ピュアラブストーリー」へと脳内で180度変換された。
(な、何考えてるのよ私!!)
美緒は伝票の裏の分析シートを、顔を真っ赤にしながらクシャクシャに丸めた。
胸の奥が、さっきまでの心理学の公式なんかじゃ絶対に説明できないレベルで、ドクン、と熱く脈打つ。
「違う、違ーーう!! あいつはハンターよ!! 私をハメようとしてる悪魔よ!!」
誰もいない店内で、美緒は自らの細い両腕で身体を抱きしめ、ジタバタと足を震わせた。
分析すればするほど、否定すればするほど、翔という底なし沼の深みへ、自ら全力の平泳ぎで飛び込んでいることに、彼女はまだ気づいていない。
「明日こそ……明日こそ、あの涼しいツラを引っぺがして、ボロを出させてやるんだから……っ!」
翌日、何も知らずに「あ、マガジンの発売日だ」とサフランのドアを開ける予定の翔は、前日よりもさらに500倍こじらせた、もの凄くめんどくさくて、もの凄く可愛いマドンナに待ち伏せされることになるのだが――それはまた、別のお話。
(第3話・終わり)




