マドンナの敗北宣言
「──ちょっと待ちなさいよ香織!!」
サフランのカウンターに、私の怒号と、ひび割れんばかりの激しい音が響く。
お気に入りのアイスコーヒーのグラスが恐怖に震えているけれど、今の私には構っていられない。
「実家の姉!? 迷子の駅員さん!? なによその、1ミリも色気のない物理学的定義は! 大学のマドンナたるこの私が、あいつの脳内でそんなセーフティネットみたいな扱われ方してるわけないでしょ!?」
「いや、現実を受け止めてください美緒先輩。昨日、『クローバー』で翔先輩、いきいきした目で言ってましたよ。『美緒さんって、出来の悪い弟を見守ってくれるお姉さんみたい』って。なんですか、エネルギーが一番安定した『基底状態にあるような存在』って」
「それは翔なりの愛情表現でしょう! 前に『直接お母さんみたい』とも言われたから、それよりは進歩してるわよ!」
「それは愛情表現ではありません。ただの恋愛感情が無いってことです」
「『美緒さんの作ったオムライス、毎日でも食べたいです』って! あれはどう考えてもプロポーズ──」
「オムライスが好きなだけ」
頭を抱えてカウンターに突っ伏す。
脳内モノローグを挟む余裕すらない。香織の口から繰り出される事実の弾丸が、私のこれまでの幸福な勘違いを次々と撃ち落としていく。
「じゃ、じゃあ、あいつの好きなタイプは!? 前に『僕、Aカップのスレンダーな女性が凄く魅力的だと思うんです』って熱弁してたじゃない!」
「それは一般的な女性のタイプ。別に美緒さんのことは指していませんよ」
「え?」
悔しい。恥ずかしい。
だけど、それ以上に。
そこまで「女として1ミリも意識されていない」という最悪の現実を突きつけられて、なお。
あいつのあの、冴えない笑顔が、猛烈に恋しい。
今日サフランにいないっていう事実だけで、私の心がすっかり干からびている。
私はやり場のない切なさを堪えるように、胸元に持っていたトレイをぎゅっと強く抱きしめた。
「先輩。トレイ、力づくで曲がっちゃいますよ」
「……」
香織の冷ややかな、でもどこか憐れみを帯びた視線が刺さる。
文学部心理学科のプライドにかけて、自分のこの心のメカニズムなんて、とっくに解析済みよ。
認めちゃえば楽になる。そんなことは分かっている。
でも、マドンナと呼ばれたこの私が、あんな留年中の理系劣等生に、生活の主導権を完全に握られてるなんて──。
「……はぁ」
私はトレイを抱えたまま、力なくカウンターに深く顎を乗せた。
完全な、敗北宣言だった。
「……香織」
「はい」
「私、もうダメみたい」
「何がですか」
「もう、どうでもいいくらい、あいつのことが好きだわ」
ツンデレの『ツン』が、完全に消滅した瞬間だった。
香織はしばらく、呆れたように長いため息をついた。
「知ってました。全人類が知ってます。先輩、やっと認めましたね」
「うるさいわね……! 認めたわよ! 認めりゃいいんでしょ! 私はあいつの『気持ちが断熱膨張して、怒りのエントロピーが増大している』みたいな意味不明の物理の例え話も、あの冴えない笑顔も、全部私だけのものにしたいのよ!」
半泣きで開き直る私に、香織は「やれやれ」と肩をすくめる。
「まあ、自覚したなら一歩前進ですね。あれでも翔先輩、『クローバー』では他のお客さんからも結構話しかけられてますから。のんびりしてると、どっか行っちゃいますよ」
「な、なんですって……!? 他の女!? もし、そんなことになったら、サフランに監禁してやる」
「ストーカーの初期症状ですね。強く生きてください、先輩」




