美緒先輩はお姉さん
平日の夜。さっきまでのゲリラ豪雨の影響で、洋風居酒屋『クローバー』はしんと静まり返っていた。
やることもなく、私はホールの隅でメニュー表をパタパタ整えながら、暇を持て余す翔先輩を横目で見る。
「それにしても、さっきは助かったよ香織。あのままサフランにいたら、豪雨で大惨事になるところだったよ」
のんきに胸をなでおろすその姿に、私はトレイを抱えたままジト目を向けた。
「翔先輩、それ本気で言ってます? 私、店長に頼まれて迎えに行っただけですけど……あの時の美緒先輩、完全に怒ってましたよ」
「え? そうだったか? でも美緒さんっていつも怒ってる感じだろ。ツンツンしてるというか」
……あーあ、出た。この人、恋愛偏差値だけビッグバン以前で止まってる。
「翔先輩、美緒先輩は翔先輩のこと“特別”だと思ってますよ」
軽く肘で小突くと、先輩は珍しく真面目な顔になった。
「そうなんだよ」
……え? 気づいてたの?
「美緒さんは俺のこと、出来の悪い弟として特別視してるんだ」
「……は?」
翔先輩は、なぜか誇らしげに胸を張った。
「ほら、手の手のかかる弟ほど可愛いって言うだろ?」
「いやいやいやいや」
「つまりだな、あの瞬間に働いたエネルギーは姉弟間における“慣性モーメントの共鳴現象”なんだ」
「……なんですかその物理ワード」
完全に自信満々だ。
「姉(美緒さん)の重心と、出来の悪い弟(俺)の回転運動が同調することで、家族の平穏という角運動量が保存されるんだよ」
「…………」
「だから香織が車で迎えに来てくれた時、美緒さんは“やっと弟が迎えの車に乗ったわ”って安心したはずだ」
翔先輩はしみじみと私の肩をポンと叩いた。
……ハァ。
私は深く、深ーーーくため息をつき、こめかみを指でギュッと押さえた。
恋愛フラグを折る時だけ、この理系劣等生はアインシュタインも裸足で逃げ出す謎理論を組み立ててくる。
「……先輩、ちょっとそこに直立不動でいてください。私、バックヤードで発注確認してきます。これ以上ここにいたら、私の脳細胞が死滅します」
「え? おい香織、サボりか?」
トボトボと厨房へ向かいながら、私は一度も会ったことのないサフランのマドンナを思い浮かべ、心の中でそっと両手を合わせた。
(美緒先輩……お気の毒ですが、マドンナのあなたが、今、翔先輩の脳内では“実家の姉”か“迷子を誘導する駅員さん”として物理学的に定義されました。……強く生きてください……!)




