帰還 ため息から大噴火
それから、さらに地獄の2日間が過ぎた。
翔が姿を消してから、これで計5日目。サフランの空気は今日も穏やかで、
ジャズが流れ、常連客が新聞をめくり、
外の風は初夏らしく爽やかで――……なのに、私の心だけはずっと嵐だった。(5日よ? 5日。
人間って5日も行方不明になる?
いや、なるかもしれないけど……
あいつの場合は“なるな”でしょ!!)カウンターでカップを磨きながら、
私はもう何度目か分からないため息をついた。香織ちゃんは昨日も来た。
そして相変わらず、私の心を弄ぶようにニヤニヤして帰っていった。(……あの小悪魔め……!
絶対わざと翔の話を濁してるわね……!
何か知ってるのに言わないタイプよ、あれは……!)そんなことを考えていた、その時だった。カランコロン。「ちわーす」……は?驚くほどケロッとした、
いつも通りの冴えないトーンで、
あいつが店に入ってきた。(………………は???)脳が一瞬、現実を拒否した。「お、お前……!
5日もどこ行って――」「いやー、居酒屋が休みになったんで、
ちょっと信州まで撮影旅行に行ってきました。
これ、お土産のりんごっす」ゴトッ。翔は真っ赤なりんごがぎっしり入ったレジ袋を、
なんの悪気もなくカウンターに置いた。(……りんご?
りんご……?
いやいやいやいや、待って。
この5日間、私がどれだけ心配して、
どれだけモヤモヤして、
どれだけ香織ちゃんに弄ばれて……
その間あんた、りんご……?)翔はさらに追い打ちをかけるように、
ポケットからスマホを取り出し、
画面を私に突き出してきた。「長野の山奥で、めちゃくちゃ綺麗な夕焼けが撮れたんですよ。
光の屈折率が最高で、物理的に完璧なグラデーションでした」(………………は?????)夕焼け?
屈折率?
グラデーション?
物理的に完璧?(いやいやいやいやいや!!
何その理系ワード満載の“俺は充実してました”報告!!
こっちは5日間、胃に穴が開くほど悩んでたのよ!?
なんであんたは山奥で夕焼けとイチャイチャしてんのよ!!)怒りが臨界点を突破し、
頭の中で何かが派手に弾けた。「――あんたなんか!!」翔がビクッと肩を跳ねさせる。「そのりんごごと!!
ニュートンのリンゴの木に縛り付けられて!!
一生重力の実験でもしてなさいよおおおおお!!」「ええっ!? 意味不明!?
そもそも、その言葉俺の専売特許だし!!」翔は差し出した袋をひったくられ、
理不尽な怒号に本気で怯えている。(当たり前でしょ!!
5日も失踪しておいて、
“夕焼け綺麗でした〜”じゃないわよ!!
こっちはずっと……ずっと……)言葉にならない感情が胸の奥で渦巻く。翔はおろおろしながら、
りんご袋を盾みたいに構えている。「え、えっと……
なんかすみません……?」「すみませんじゃないわよ!!
なんで連絡の一つも寄越さないのよ!!
あんたのせいで私がどれだけ――」(……あっ)危ない。
言いかけた言葉を、私は慌てて飲み込んだ。翔は首をかしげる。「どれだけ……?」「どれだけムカついたと思ってんのよ!!
バカ!!」「えぇ……」翔は完全に怯えた顔で、
りんご袋を抱えて後ずさる。サフランの店内に、
私の(一方的な)大爆発の音が虚しく響き渡った。ジャズが止まったように感じた。
常連客の新聞めくる音も止まった気がした。でも――(……ほんとに……
どこ行ってたのよ、あんた……)胸の奥に残ったのは、
怒りとも安堵ともつかない、
複雑な感情だった。――翔が帰ってきた5日目が、こうして終わった。(第14話・終わり)




