第8話 森の襲撃
二人とも、それぞれの馬に飛び乗った。
街道に戻る時間はない。
アルテミシアさんは、湖のふちを回る細い道へ馬を走らせた。
馬が一頭やっと通れるくらいの、けもの道だ。
私もすぐ後を追う。
あっという間に、森に囲まれた。
木の枝が、頭のすぐ上まで垂れている。
馬のひづめが、湿った土を深くえぐった。
道は、進むほど暗くなっていく。
空気が重い。
こけと、腐った木のにおいが混じっていた。
馬の鼻息が、だんだん荒くなる。
何かを感じ取っているんだ。
それが、私にも分かった。
その時だった。
ひゅう、と。
何かが、私の耳のすぐ横を通り過ぎた。
空気を、薄く切り裂く音。
矢だ。
速さも、どこから来たのかも、見えなかった。
それが矢だと分かったのは——
私の少し前を走るアルテミシアさんの後頭部に、まっすぐ飛んでいったからだった。
白い矢羽が、ちらりと見えた。
見えるか見えないかの一瞬。
もう矢は、彼女の首のすぐ後ろまで届こうとしていた。
私が声を上げるより、早かった。
ばちん、と火花が散った。
アルテミシアさんの右腕が、頭の後ろで半円を描いていた。
振り向きもせず、振り上げた剣。
細い剣の先が、矢の軌道をほんの少しだけ、横へずらしていた。
矢は、左の木の幹に深く刺さって止まった。
矢羽だけが、ふるえるように揺れている。
アルテミシアさんは、馬から飛び降りた。
着地と同時に、肌の表面が、ゆらりと揺れて見えた。
身体強化だ。
自分の魔力を体に流して、力を上げる技。
そのおかげで、着地の衝撃は、すべて地面に消えていった。
彼女が、私を振り返る。
「あんたが遅いもんでやがね」
「す、すみません」
「逃げきれん。降りやぁ」
私も慌てて馬を降りた。
鞍から地面に足をついた、その動きで。
内ももの傷が、また悲鳴を上げた。
でも、口には出さなかった。
二頭の馬は、私たちを振り落とすと、森の奥へ走り去っていった。
森の中に、声が響いた。
「女が、二人、か」
声は、頭の上の方から降ってきた。
高い枝のあたりだ。
若くもなく、年寄りでもない、男の声。
人をからかうような、いやな響きがあった。
「しかも、上物じゃ、ねえか」
別の声が、別の方から答えた。
こっちは、もう少し若い。
「この国にも、まだ旅する奴がいるんだな」
「ボスのところに、連れて行こうぜ」
私はゆっくり見上げた。
十歩ほど先。
太い松の枝の上に、軽い身なりの男が一人、立っていた。
歳は、三十くらい。
髪は脂と泥で固まって、束になって垂れている。
あごには、無精ひげ。
汚れた革のよろいの上から、矢筒がのぞいていた。
男は、片手で自分の弓をなでていた。
鉄でできた弓だ。
普通の人間が、片手で持っていられる重さじゃない。
その時。
アルテミシアさんの右の頬の横で、もう一度、火花が散った。
別の矢だった。
正面の男じゃない。
右の方から飛んできた。
アルテミシアさんは、それも剣で弾いた。
でも、今度は弾ききれなかった。
矢が、彼女の額の生え際を、わずかにかすめる。
皮膚が、すっと線になって開いた。
血が一筋、眉の上に垂れる。
アルテミシアさんは、左手でそれを軽くぬぐった。
手の甲に、赤い細い線が残る。
「血が——」
「問題にゃあ」
彼女の声は、低かった。
「それより——三人だがね」
「三人?」
「弓使いが二人。それと、もう一人」
私は、まわりの木を見回した。
正面の一人は、見えている。
右の一人は、声で場所が分かる。
でも、三人目は、まだ見えなかった。
「木の裏に隠れとらんで、出てきやぁ」
アルテミシアさんが、低く言った。
奥の太い松の根元から、影がゆっくり滑り出てきた。
女だった。
歳は、アルテミシアさんと近い。二十くらい。
長い外套を羽織っている。
色は灰色。袖が、足元まで垂れていた。
首から、親指の先くらいの灰色の魔石を、ひもで下げている。
胸の前で、その石がかすかに揺れていた。
魔石——魔力をためた石だ。
あれがないと、魔法は使えない。
つまり、この女は。
「隠れとった、わけじゃないよ」
女が、口の端を少し上げた。
「身体強化の連中と違うて、こちとら、足が遅いだけさ」
「魔術師、かね」
アルテミシアさんが、舌で唇を湿らせた。
「リディア」
声が、低くなる。
「うちが二人を引きつけるがね。あんたはその間に、馬で逃げやぁ。うち一人なら——なんとかなるもんで」
「そんな——」
私は、息を呑んだ。
アルテミシアさんの額の傷を見る。
弓使い二人の矢を、もう弾ききれていない。
あの精度で、この先ずっと立ち回れるわけがない。
その上、魔術師まで加わるのだ。
逃げ切れるはずがなかった。
私は、腰に下げた父の杖の握りに触れた。
「アルテミシアさん」
私は、ゆっくり口を開いた。
自分でも、どうしてこんな言葉が出てきたのか分からなかった。
ただ、出てきた。
出てきた時には、もう、引っ込められなかった。
「弓使いの二人を、お願いします。私が、魔術師をなんとかします」
アルテミシアさんの目が、わずかに見開かれた。
それから、まっすぐ私を見た。
私の目の奥にある何かを、二度、三度、見定めるように。
剣では勝てない。
けれど魔術師なら、紋章を組む一瞬がある。
私に見えるかもしれない。
そこに賭けるしかなかった。
「……まあ、うちの知ったこっちゃにゃあ」
短く言う。
「頼んだがね」
「はい」
正面の男が、笑った。
「くくっ。作戦は終わったかよ。抵抗するなら、痛い思いするぜ」
そう言いながら、男は背中の鉄の弓を、ゆっくり構えた。
矢筒から、新しい矢を抜く。
男の腕の筋肉が、青く震えて見えた。
身体強化の魔力だ。
鉄の弓が、ぎし、ぎし、と軋む。
弦が、限界まで曲がった。
矢が、放たれた。
軌道は、私の目には見えなかった。
ただ次の瞬間、アルテミシアさんの足元の土に、火花が散る。
矢は、地面にぴんと刺さって止まった。
切っ先だけが土に潜り、矢羽が空を向いている。
「くくっ。器用、だね〜」
弓使いの声は、退屈な遊びを楽しんでいるみたいだった。
「剣で、矢の向きだけ変えるなんて、さ」
その時。
右の木陰から、別の、湿った声が漏れた。
「ぐ、はっ——」
私は、振り返らなかった。
振り返らなくても、何が起きたかは分かった。
アルテミシアさんが、声の主——もう一人の弓使いへ、ナイフを投げていた。
風が、わずかに動く。
血のにおいが、森の湿気の中に、ほのかに混じった。
それでやっと、私は、戦いが始まったのを、肌で感じた。
アルテミシアさんの口の端が、わずかに上がる。
「隠れる気ぃ、にゃあがね」
正面の弓使いの顔から、笑いが消えた。
「て、手前——」
弓使いは、慌てて隣の枝に跳んだ。距離を取る。
跳んだ空中で、もう一度、腕の筋肉が青く震えた。
アルテミシアさんは、もう追う準備をしていた。
足の先が、地面を軽く掻いている。
踏み込む直前の、力の溜め方だ。
「早めに終わらせる。魔術師を倒すんだがね」
彼女は、私を振り向かずに言った。
「……死ぬなて」
私は、父の杖の握りを、強く掴んだ。
魔力は出せない。
それは、この十六年で、いやというほど確かめた事実だ。
だが——
握りには、魔石が五粒、嵌まっている。
父が最後の瞬間、私の手に託したもの。
あの圧倒的な術をふるっていた、父の杖と、同じ系統の媒介だ。
私は、それを握ったまま、魔術師の女へ走り出した。
ももの傷が、走るたびに開く。
痛みは、もう感じなかった。
痛みより先に、自分の中で、何かが走り出していた。
灰色の外套の魔術師は、私が向かってくるのを見て、薄く笑った。
その右手は、もう、首から下げた魔石を握っている。
頭の中で、紋章を組み始めているのが分かった。
森の土を踏みしめながら。
私は、父の杖を握ったまま、距離を詰めた。




