第7話 湖までの道
地の底のような暗さの中で、私は三つの声を聞いていた。
——どうにかしたい。
——ヨゼフ。
——ごめんね。
ひとつは、宿場の椅子の老人の声。
ひとつは、寝台に寝ていた少女の、細い声。
ひとつは、その子のそばにいた、母親の声。
最初は、順番に聞こえていた。
でも、だんだん混ざっていく。
三つの声が重なって、ひとつの大きな音のかたまりになっていく。
宿場の老人の指先の冷たさが、まだ私の指に残っていた。
少女が「ヨゼフ」と絞り出したときの喉の張り詰めが、自分の喉に置き忘れられていた。
母の襟元から漂った布の匂いが、鼻先に残っていた。
——どれが、私の声なんだろう。
私はそう思って、指をぎゅっと曲げてみた。
曲がった。
ちゃんと、曲がった。
指が曲がる、という感じだけは、まだ私のものだった。
それから私の意識は、すうっと、傾いていった。
天井の梁が見えた。
木の筋が、屋根のかたちに沿って、まっすぐ走っている。
すみっこには、灰色のクモの巣がひとつ。
屋根のすきまから光が射しこんで、細かいほこりが、ゆっくり舞っていた。
私はしばらく、その光を見ていた。
ほこりの一粒一粒を、目で追って。
やっと分かった。
——ああ、これは本物の屋根なんだ、と。
「やっと、起きたんかね」
声がした。枕元から。
アルテミシアさんだ。
私は、首をゆっくり横に向けた。
たったそれだけの動きにも、自分の知らない体の重みが、ついてくる。
向け終わってから、また思い出す。
この首が、自分のものとして馴染むには、まだ遠かった。
寝台のわきに、木の椅子が引いてあった。
アルテミシアさんが座っている。
修道服の上から、毛布を肩にかけて。
膝にも、まるめた毛布を置いて。
ずっとそこに座っていた人の、格好だった。
「……アルテミシアさん」
かすれた声が出た。
「二日、寝とったがね」
「二日……」
「うん。あたしはもう、お前さんが死んだかと、半分思っとったがね」
アルテミシアさんの目の下には、濃いくまができていた。
顔も、いつもより白い。
「水ぃ、飲みやぁ」
竹の筒が、そっと私の口にあてられた。
筒のふちから、アルテミシアさんの指のあたたかさが、ほんの少し、伝わってくる。
冷たい水が、喉をゆっくり湿らせていく。
二日ぶりに、喉が「自分の体の一部だ」と、思い出したみたいだった。
「立てるんかね」
「……たぶん」
「立てるんなら、出るがね。長居しても、ここにはもう、なんも無いて」
宿場の下の階に降りると、窓ぎわの椅子は、空っぽになっていた。
私は、扉の手前で足を止めた。
二日前。
私はあの椅子の前で、老人に見えた一人の男の人生を受け取った。
その記憶は、まだ私の中に残っている。
町に出すはずだった、二つめのお店の図面。
そのぼんやりした線まで、覚えている。
椅子のひじ掛けには、手のひらのかたちに、くぼみが残っていた。
長いあいだ、男性の手が置かれていた、跡だ。
くぼみの底には、もう薄く、ほこりが積もりはじめていた。
アルテミシアさんは、椅子の前を通りすぎる前に、いちど立ち止まった。
それから片膝をついて、ひじ掛けのほこりを、指の腹でそっと払った。
「お暇いたします」
なまりの抜けた、静かな言葉だった。
その言葉は、もう椅子には届かない。
届かないと分かっていて、それでも、けじめとして、頭を下げたのだ。
アルテミシアさんは立ち上がり、扉を押した。
朝の光が、どっと中に流れこんできた。
扉の外には、塀のくずれた村が、広がっていた。
馬に乗るのは、思っていたよりずっと、つらかった。
二日寝こんでいるあいだに、内ももの擦り傷は、表面だけ薄いかさぶたになっていた。
でも、新しい鞍の布がそこに触れたとたん、傷のふちが、ピリピリと痛んだ。
私は、声を出さなかった。
馬が、歩きはじめる。
塀のくずれた門の前まで来ると、アルテミシアさんは、ふり返った。
村の何かを見ようとしたわけじゃない。
ただ一度、目を閉じて、開けた。
それから、また街道の先へ、目を戻した。
朝の空気の中で、村はゆっくりと、後ろへ消えていった。
街道はやがて、平らな野原から、森のふちをまわる道に変わっていった。
道の両側には、低い木がしげっている。
ところどころに、背の高い、とがった葉の木が混じっていた。
風が吹くたびに葉が揺れて、木のヤニの、青くさくて甘い匂いがした。
そのうち、遠くで、地面がふるえるような低い音が、聞こえてきた。
馬のひづめとは、ぜんぜん違う音。
何か大きなものが、何頭も、いっしょに地面を踏んで歩く音だった。
その足音が、鞍の革ごしに、私の体まで、伝わってくる。
顔を上げると、二百歩ほど先の、野原のくぼみに、大きな影がいくつも見えた。
群れだ。
六頭、いや、七頭。
体の色は、灰色がかった茶色。
背の高さは、大人の倍くらい。
鼻の上に、太くて長い角が二本。
前の角のほうが、後ろより、明らかに長い。
「鎧角獣」
本で、その名前を読んだことがあった。
角は、剣の握りにするのに最高で、北の野原にしかいない。
王都には、よその土地から運んだ角しか、入ってこない——そう書いてあった。
でも、本の絵では、牛みたいに、おとなしそうに描かれていた。
目の前の群れは、違う。
一歩あるくごとに、地面が、低く揺れる。
挿絵では分からなかった重さが、土を通して、私の内ももにまで届いていた。
「あの群れはな、こっちが手ぇ出さん限り、襲ってこんて」
アルテミシアさんは、馬の足を、そっと緩めた。
声も、うんと抑えていた。
馬の足音すら、ひびかせたくない——そんな抑え方だった。
「ほんでも、いっぺん刺激したら、おしまいだて。馬の一頭くらい、頭で潰してくるもんで」
私たちは、群れから離れた北側の道を、そうっと進んだ。
群れの中の一頭が、こっちへ顔を上げた。
心臓が、止まったかと思った。
——けれど、その獣はすぐ、また地面の草に、口を戻した。
馬のひづめを、できるだけ軽く、軽く、運んだ。
道の途中、群れに襲われたらしい馬車が、こわれたまま道ばたに転がっていた。
道がさらに下ったところで、行く手を、何かがふさいでいた。
道いっぱいに広がる、大きくて丸い影。
最初、私はそれを、岩だと思った。
道の真ん中に、苔の生えた大きな岩が、ころがっているみたいに見えた。
その岩が、動いた。
ゆっくりと、前のほうから、首がにゅうっと伸びてくる。
しわの深い、灰色の皮。
その先に、目が二つ。
家ほどの大きさの、巨大な陸亀だった。
甲羅は、苔としめった草で、びっしり覆われている。
小さなキノコまで、生えていた。
頭のてっぺんは、馬の背中よりも、高い。
亀は、いちど私の馬を見た。
その目には、奇妙に年寄りじみた知性があった。
それからすぐ、興味をなくしたみたいに、首をゆっくり引っこめた。
「動くまで、待つしか、にゃあがね」
アルテミシアさんは、馬から下りた。
「半刻もせんうちに、横へよけるて。気の長い生き物だで」
亀が動くのを待つあいだ、アルテミシアさんは、地図と、銅でできた小さな方位磁石を取り出した。
私が王城の書庫で見てきた、きっちりした地図とは、まるで作りが違った。
獣の皮をうすく伸ばして、その上に、道と川と、いくつかの印が、手で描いてあるだけ。
紙ですら、ない。
印はたぶん、危ない獣の出る場所や、水場や、村の場所を、表しているのだろう。
街道を旅する人は、紙じゃなくて、皮を使うのか。
書物では学べなかった一行が、また、私の中の項目に加わった。
それでもアルテミシアさんは、何度か、うなずいた。
「あと半日で、湖をひとつ越えるがね」
亀は、そのあいだに十歩ほど、横へ動いていた。
彼女の言ったとおり、道の片側が、ちょうど馬一頭分だけ、空いた。
お昼ごろ、街道の右の木々が、ぱっと開けた。
その先に、湖が広がっていた。
水面は、朝の風で、ちいさく波立っている。
空をうつして、青と銀のしまもようが、入れかわっていく。
まわりを、深い緑の森が、ぐるりと抱いていた。
湖の真ん中で、水鳥が長く鳴いた。
別の水鳥が、それに答えた。
やがて湖じゅうが、水鳥の声で、いっぱいになった。
私は、息を止めた。
王城の中庭の池。城下を流れる運河。
十六年見てきた王都の水は、どれも人の手で形を整えられ、人の声に囲まれていた。
でも、目の前の湖は、ちがう。
だれの手も入っていない水が、ただ風と鳥の声の中に、広がっていた。
「馬ぁ、休ませるがね」
アルテミシアさんは、馬から下りた。
腰の剣を、抜いていた。
馬はすぐ、湖のふちに寄って、水を長く飲んだ。
私は、湖から少し離れた、平らな岩の上に、腰を下ろした。
下ろしたとたん、内ももの傷が、また、きしんだ。
腰のはばが、自分の知っているのと違うことを、また、思い出させてくる。
しばらく、二人とも、だまっていた。
風が梢を揺らす音。
馬が水を飲む音。
湖の真ん中で、また水鳥が鳴く音。
それ以外は、何も聞こえなかった。
私は、自分の手のひらを見つめた。
昨日まで、二人の命の終わりに触れていた手のひら。
その感覚は、もう、消えていた。
残っているのは、岩の冷たさだけだった。
私は、思い切って、口を開いた。
「アルテミシアさんは——」
「ん」
「どうして、教会にいるのですか」
アルテミシアさんは、湖のほうを見たまま、答えなかった。
答えのない時間が、長かった。
水鳥が、もう一度、長く鳴いた。
「教える必要、にゃあて」
それで、終わりだった。
私は、それ以上、聞かなかった。
それ以上踏み込んではいけない。
その短い答えに、はっきり、そう書いてあった。
しばらくして、アルテミシアさんの肩が、ぴくりと動いた。
水鳥の声に混じって、別の音がしたのだ。
彼女は片膝を立てたまま、首だけを、すっと街道のほうへ向けた。
私には、まだ、湖の音しか聞こえない。
でもアルテミシアさんの手は、もう、馬の手綱に伸びていた。
静かに、でも、速く。
「水場のそばは、よくにゃあもんで」
低い声だった。
自分にだけ、言い聞かせるような声。
「凶暴な獣も、寄ってきとるがね」
私は、慌てて立ち上がろうとした。
その途中で、内ももの傷のふちが、ちくっと刺さった。
でも、構っている時間は、なかった。
「待ちゃあ」
アルテミシアさんの声が、もう一段、低くなった。
腰を低くしたまま、街道を、じっと見ている。
その目が、まばたきの数を、半分に減らした。
「獣じゃ、にゃあがね」
「え——」
「人ぉ、近づいてきとる。何人か、おる」
「人? こんな所に……」
アルテミシアさんは、答えなかった。
代わりに、馬の手綱を素早くほどいて、革を私のほうへ、投げてよこした。
「はよ、跨りゃあ。声、出すなて」
私は、馬の鞍に、手をかけた。
内ももの傷が、また走った。
でも、痛みより先に、自分の心臓の音が、耳の奥で大きくなっているのが、分かった。
森のふちで、枯れ枝の折れる、かわいた音がした。
ひとつ。
それから、もうひとつ。
足どりは、そろっていない。
何人もの人間が、ばらばらの足どりで、湖のほうへ歩いてくる。
その、ばらばらさが——なぜか、獣よりも、こわかった。
風が、止んだ。
水鳥が、鳴きやんだ。
木のヤニの匂いに混じって、新しい匂いが届いた。
鉄の匂いだった。
あの夜、暗殺者の刃のそばで嗅いだ匂い。
私は、手綱を握りしめた。




