第6話 流れ込む記憶
窓から、朝日が差し込んでいた。
寝台の縁が、橙色に染まっている。
夜明けの誓いのあと、私はまた寝台に倒れ込んでいた。
立ち上がる力が、まだ戻っていなかった。
瞼を閉じると、すぐに浅い眠りに沈んだ。
次に目を覚ましたとき、外の空気は、もう冷たいだけではなかった。
朝日が完全に昇りきっている。
塀の向こうの地平線が、薄い金色から白へと変わっていた。
雲は細く、横に伸びている。
それを見ていたとき。
——グゥー。
腹の奥で、低く長い音が鳴った。
予想していなかった音だった。
私は、思わずお腹を片手で押さえた。
林檎を食べてから、もう丸一日以上が経っている。
胃は、また空っぽだった。
こんな音を聞くのは、初めてだった。
「腹、減っとらんか」
寝台の縁で外套を畳んでいたアルテミシアが、振り返らずに言った。
「これ、食えるかね」
差し出されたのは、固い干し肉のかたまりと、乾いた草の束だった。
旅道具の入った腰袋から、取り出したものらしい。
私は、干し肉を一切れ口に運んだ。
噛んだ瞬間、舌が跳ねた。
まず、塩。
それから、嗅いだことのない、強い香り。
胡椒のような、薬のような、もっと粗いもの。
でも、空っぽのお腹は、味に文句を言えるような状態ではなかった。
私はできるだけ顎に力を入れた。
辛い味の奥にある、わずかな肉の旨味だけを、舌の奥で探した。
次に、緑の草を口に入れた。
苦かった。
頬の内側が、勝手にすぼんだ。
「噛みきりゃあ。その草も食わんと、立てんがね」
アルテミシアの声には、いつもの突き放すような言い方の中に、ほんの少しだけ、気づかいの色があった。
「ちょっと、村ぃ見回ってくるて」
朝食を終えると、アルテミシアは立ち上がった。
「誰が生きとるか、確かめんとな」
私も頷いた。
腿の擦り傷は、まだ痛む。
背骨も、内腿の筋も軋んでいた。
立ち上がるだけで、肺の奥が一度すぼむ。
それでも、この村で何が起きているのか、自分の目で確かめたかった。
意志だけが、私の体を立たせていた。
階段を、一段ずつ下りる。
壁に手をついて、体を支えながら。
昨日の老人は、まだ同じ椅子に、同じ姿勢で座っていた。
私はその前に進み、片膝をついた。
アルテミシアの真似だった。
「お早うございます」
老人は、目をゆっくりと開いた。
昨日と同じ、皺の奥の瞳。
その瞳の中だけが、まだわずかに生きていた。
「魔力奉仕について、伺ってもよろしいですか。どれくらいの量を、どれくらいの頻度で——」
老人は、口を開かなかった。
ただ、骨と皮しか残っていない指先が、私の差し出した手に、わずかに触れた。
老人の目が、また閉じる。
その瞬間だった。
私の右の手のひらの真ん中から、何かが流れ込んできた。
温かいものではない。
重さがあるわけでもない。
ただ確かに、記憶とも、感情ともつかないものが、皮膚の奥から私の中へ入り込んできた。
老人の体から、薄い、目には見えない光のような魔力が、私の手のひらに吸い込まれていく。
同時に、こめかみの内側で、低い音が鳴り始めた。
耳鳴りに似ている。
でも、耳ではなく、頭の骨の内側で鳴っていた。
視界の端が、わずかに歪む。
指先の感覚が、急に冷えていった。
私の意識が、ゆっくりと引き込まれていく——。
『——俺の宿は、街道一の繁盛店だった』
『じいさんの代からの宿だ。東の商人が北へ向かうときには、必ず一泊する。馬をつなぐ場所は六頭ぶん、客間は四つ』
『俺は、この宿を、もっと大きくしたかった』
『客間を四つから八つに増やす。馬をつなぐ場所も倍にする。料理人を雇って、街道一の朝食を出す』
『そしていつかは——城下町に、もう一軒、宿を建てる』
『それが、俺の夢だった』
『俺は、朝から晩まで働いた。客の名前も顔も、全部覚えた。馬の好みまで覚えた』
『繁盛は、続いていた』
『ある朝、王立の代官と名乗る男が、四人の徴収官を連れて、村に現れた——』
『最初は、年に二度。一日ずつ』
『次は、月に一度。半日』
『やがて、十日に一度。五日に一度——』
『魔力を差し出すたびに、夢が遠くなっていった』
『城下町の店どころか、今ある宿の屋根の修理にも、手が回らなくなった』
『気がつくと、俺の頬には、年寄りのような皺ができていた』
『気がつくと、立ち上がるのに、肘を椅子につかなければならなくなっていた』
『気がつくと、客が来ても、笑顔を作るのが、面倒になっていた』
『最後には——客が泊まっても、勘定を取るのが、億劫になった』
『金をもらう。それすら、面倒だ』
『どうにかしたい』
『どうにかしたい。それしか、もう思えない』
『どうにかしたい、どうにかしたい、どうにかしたい——』
そこで、意識が戻った。
頭蓋骨の内側で鳴っていた音が、ようやく止んだ。
でも、視界の歪みはまだ残っている。
耳の奥に、まだ別の脈があった。
自分のものではない、誰かの心臓の音の名残のようなものだった。
私の頬を、何かが温かく流れ落ちていた。
涙だった。
鼻からも、何かが流れている。
涙と混ざって、顔の下半分が、ぐちゃぐちゃになっていた。
「リディア!」
階段を下りてきたアルテミシアが、私の顔を見て駆け寄った。
「何があった」
「……分かりません」
私は、本当に分からなかった。
ただ、いま自分の中に、別の男の人生が丸ごと流れ込んできた——それだけは、確かだった。
老人の顔を、もう一度見た。
目は閉じたまま、動かない。
胸も、もう上下していなかった。
——どうにかしたい。
老人の最後の言葉だけが、私の胸の奥で、まだ繰り返されていた。
アルテミシアは、私の頬の涙を、自分の袖口で乱暴に拭った。
「鼻、噛みやぁ」
懐から布を一枚取り出して、私の顔に押し付ける。
「水ぃ飲んどき」
水筒の蓋をひねって、私の手に握らせた。
「もう一軒だけ、いっしょに来やぁ。神父様への報告に、確かめんといかんがね」
私は、頷いた。
宿を出て、石畳の通りを北へ歩く。
朝日は、もう屋根の上まで昇っていた。
その光が、畑の案山子に当たっている。
三軒目の家の扉を、アルテミシアはノックではなく、押した。
扉は、内側からぼろりと開いた。
鍵は、もう掛けていなかった。
中に入ると、湿った布の匂いがした。
土間の奥に、寝台が一つ。
その上に、一人の女性が横たわっていた。
女性は——いや、女性と呼んでいいのか、私には判断がつかなかった。
体が、異様に小さい。
子供と見間違うほどの背丈。
なのに顔は、宿の老人と同じ、深い皺で覆われていた。
ただ、眼だけが、まだ若い少女のものだった。
白い部分が、まだ白かった。
その寝台の脇に、木の椅子があった。
椅子には、もう一人、年配の女性が座っている。
背中をもたれかけ、頭がわずかに横に傾いていた。
胸は、上下していない。
椅子の老女は、すでに息をしていなかった。
私は、寝台の少女に近付いた。
小さな手が、布の上でわずかに動く。
指先だけが。
私の右の手のひらが、自然とその指先に触れた。
また、流れ込んできた。
頭の骨の内側で、二度目の音が鳴り始める。
一度目より、強く、深かった。
視界が、二重にぶれる。
どちらが誰の視界なのか、分からなくなりかけた。
『幼馴染の男の子がいた。名前を、ヨゼフ』
『小麦色の髪と、ぼんやりした目をした、おとなしい少年』
『わたしはいつか、ヨゼフと一緒になるんだと思っていた——』
『十二歳の奉仕儀式の前の日、わたしは村を逃げた』
『月のない晩、母に手紙だけを残して、ヨゼフと二人で街道を南へ走った』
『外の世界は、厳しかった』
『飯を食べられない日が続いた。ヨゼフは、わたしの分まで、自分の干し肉を分けてくれた』
『一度だけ、食べ物を取りに、村へ戻った——』
『玄関を開けた瞬間、母の顔が、見えなかった』
『皺だらけの、知らない女が、土間に立っていた』
『「お母さん」と、わたしは呼んだ』
『女が、ゆっくりと顔を上げた。それが——母だった』
『「あんた——あんたの分も、わたしが奉仕していた」』
『母は、それしか言わなかった——』
『その夜、わたしはヨゼフに、家に戻ると言った。「母を、見捨てられない」』
『ヨゼフは、何度も引き留めた。わたしはヨゼフの肩に額をつけて、頷くだけ頷いた』
『頷きながら、村に戻ると、心の中で決めていた——』
『戻ってからは、わたしが、母の分も、自分の分も、二人分を奉仕した』
『わたしは、魔力の量が、村の他の子より多かったらしい』
『二人分を奉仕しても、わたしの皺は、母ほど深くならなかった』
『ある日、口を開こうとしても、声が出なかった——』
『そして、寝台から起きられなくなった』
『母が椅子を寝台の脇に引いて、座った』
『皺だらけの母の手が、わたしの頭を撫でた』
『「ごめんね」』
『母は、それだけ言った——』
『それから母は、その椅子から、もう動かなかった』
そこで、意識が戻った。
頭の中で、二つの脈が、同時に鳴っていた。
自分の心臓の音と、もう一つ——たぶん、娘の、止まったはずの心臓の音の残響。
視界が、今度は三重にぶれた。
手の指先が、誰の指先なのか、分からなくなる。
私の体は、もう止まらなかった。
椅子の老女のほうへ、よろよろと歩いていく。
「お母さん!」
私の口から出た声は、自分の声ではなかった。
高い、少女のような、別の声だった。
「お母さん! ごめんね! ごめんね!」
椅子の老女の胸に、私は顔を押し付けた。
胸からは、もう何の音も聞こえない。
それでも、私は押し付けた。
涙が、老女の襟元の、薄汚れた布に染み込んでいく。
「ごめんねお母さん——もっと、わたしが、奉仕しとけば——」
その背中を、強い力が引いた。
「正気に戻りゃあ!」
アルテミシアの声と、ほぼ同時に。
頬に、乾いた音が当たった。
平手だった。
私の顔が、横に撥ねる。
「あの人は、あんたの母親じゃにゃあがや」
頬の熱さ。
塩辛い味。
自分の鼻水が、口の脇に流れ込む感触。
それらを通して、私の中で、ようやく自分と他人の境目が、戻りかけた。
戻りかけた、というだけだった。
「……すみません」
声を出した。
でも、その声がまだ半分くらい、誰のものなのか、確信が持てなかった。
「私は——」
私は、と言いかけて、続きが出てこなかった。
私は、誰だ。
私は、何者だ。
頭の中で、宿の老人の声と、娘の声と、本当の自分の声が、層になって重なっている。
どの層が自分なのか、剥がせなかった。
「私は——」
私はもう一度、同じ三文字を口にした。
それしか、出てこなかった。
アルテミシアの目が、わずかに細められた。
何かを察したのか、それとも、見ないことに決めたのか。
その表情は、読めなかった。
彼女は、それ以上は問いつめなかった。
「お前、何が起きとる」
しばらくして、アルテミシアがそう問うた。
「分かりません」
私は、首を振った。
「もう一軒、見ておかんとな」
アルテミシアの声は、抑えられていた。
私の様子を、見ていたのだろう。
四軒目の家は、戸が外れかけていた。
中は、土間まで埃が積もっている。
もう何年も、人が住んでいない様子だった。
寝台の上にも、誰もいなかった。
五軒目の家は、扉が半分開いていた。
中に入ると、寝台の上に、中年と思われる男が横たわっていた。
胸は、上下していない。
皮膚の皺は、宿の老人と同じ種類のものだった。
男のそばには、欠けた木の椀が一つ、転がっている。
中身は、乾いていた。
私は、その男の顔を、しばらく見つめた。
触れなかった。
触れて、また流れ込んでくるのが、怖かった。
頭の骨の内側の音が、まだ完全には、止んでいなかった。
その日のうちに、三人を埋葬することになった。
宿の老人。
椅子の母。
そして、五軒目の家の、寝台の上の男。
塀の外の丘の斜面で、アルテミシアがシャベルで穴を掘り始めた。
私も、一緒に土を運ぼうとした。
布袋を地面から持ち上げようとした、その瞬間。
視界が、白く揺れた。
「座っとれ」
アルテミシアの声が、低く飛んだ。
「お前、もう、立っとるだけで限界だがね」
シャベルが、深く土を抉る音がした。
普通の女の腕で、できる動きではない。
彼女の身体強化の魔力が、筋肉を巡っていた。
一つ目の穴が、掘れる。
二つ目の穴が、掘れる。
三つ目の穴が、掘れる。
私にできたのは、それをただ、見ていることだけだった。
やがてアルテミシアは、三人をそれぞれの穴に運び入れ、土を被せていった。
手早く、よどみなく。
その手つきは、修道女のものというより、これまでに何度も、この作業をくり返してきた者のものだった。
三つの墓標が、それぞれ立てられた。
最後の土を盛り終えると、アルテミシアはシャベルを地面に突いて、息を吐いた。
肩が、わずかに落ちる。
額から滴る汗を袖で拭ったとき、その腕がほんの一瞬、震えた。
足元が、ふらり、と一度揺れた。
私は、三つの墓標の前に、ようやく膝をついた。
そして、頭を下げた。
文書庫の本で読んだ聖句の切れ端だけが、口の中で繋がっていく。
——主よ、この者たちを、御腕の中へお召しください。
——宿の主には、果たせなかった二軒目の店の夢を、御許で見せてください。
——母には、もう一度、娘の額を撫でる時を、お与えください。
私は、その男のことを、何も知らなかった。
名前も、顔も、何を夢見ていたのかも。
——あなたの御許で、その者が望んだ最後の景色を、どうか見せてあげてください。
この祈りの言葉は、本に書かれていたものではなかった。
ただ、彼らの記憶の一部を抱えた者として、自然と口をついて出たものだった。
腰の下の土は、冷たかった。
私の体は、もう、立ち上がる準備をしていなかった。
「お前」
シャベルを地面に突いたまま、アルテミシアが息を吐いた。
「お前——魔力が、減っとる気がするんよ」
「魔力」
「あたしの目で見ても、お前の魔力の気配が、薄くなっとる気がするんよ。
昨日の夜には、もっと、満ちとった気がしたんだがね」
「そんなはずは——」
その時、立ち上がろうと土についた手から、力が抜けた。
「お、おみゃあ——」
アルテミシアの腕が、私の背を捉えるより、わずかに早く。
私は、丘の斜面の柔らかい土の上に、横向きに倒れた。
意識はそのあと、薄い灰色の中へと、沈んでいった。




