第5話 丘の上の村
朝が来た。
でも私は、起き上がれなかった。
野営した地面で目を覚ました瞬間、肋骨の下に、冷たいしびれがあった。
空腹なわけではない。
昨日、馬で痛めた背骨と、内ももの痛み。それが一晩眠っただけでは抜けず、鈍い痛みに変わって、体の真ん中に居座っていた。
アルテミシアさんは、それをちらりと見て、舌打ちをした。
馬の鞍にロープを通して、私の腰とももを、馬の体にしばりつけた。
「歩かせるがね」
その声は、毒を吐く余裕もないくらい、短かった。
「馬はゆっくり進む。お前は、落ちなんだら、それでええんよ」
馬の歩みは、本当にゆっくりだった。
それでも、少し進んだだけで、私は声をこらえきれなくなった。
もれた声は、悲鳴に近かった。
腰のロープが、すり切れた内ももの皮膚に食い込む。
皮膚そのものが、もうむけてしまっている気がした。
「お前——」
アルテミシアさんが、馬を寄せてきた。
腰のロープを、ほんの少しだけゆるめてくれる。
「うちが誰のために、こうやって付き合わされとると思っとるんよ」
短く、吐き捨てるように言った。
「我慢しやぁ。今日中には着くて」
灰色の塀が丘の上に見えてきたのは、太陽が真上を過ぎたころだった。
塀は、崩れかけていた。
あちこち石が抜けて、穴になっている。
穴のふちから雑草がのびて、外からでも塀の内側がのぞけた。
門番はいなかった。
門に近づくと、樫の木で組んだバリケードが、入口を半分ふさいでいた。
「ここが、今日の休憩場所だがね」
アルテミシアさんは、馬を止めた。
「本当は、昨日のうちに着いていたかったんだがね」
私は顔を上げた。
塀のさらに上に、低い屋根がいくつか見える。
「ここは——」
「王城に近いもんで、王の管轄地だて」
アルテミシアさんは、塀をあごでしめした。
「王のお名前で、代官と徴収官が、奉仕量を決めとる。じゃが、王ご自身がこうしてお越しになるわけでもにゃあ」
奉仕量。
土地を使う代わりに、平民が差し出させられる魔力の量。
つまり、命を削る量だ。
何かを言う気力は、もう残っていなかった。
アルテミシアさんは馬から降りて、バリケードを片手で押しのけた。
重そうな木組みのはずなのに、ほとんど手ごたえもなく、横へ動いた。
「勝手に入って、よいのですか」
私は、やっとそれだけ聞いた。
「ええんよ。もう、誰も相手をしてくれん」
塀の中は、静かだった。
石畳の道が、ゆるい坂になって、集落の真ん中へのびている。
両側に家が並んでいた。
煉瓦の壁。木の扉。低い窓。
でも、どの家の煙突からも、煙は上がっていなかった。
窓ガラスには、内側から布が垂れている。
畑のうねには、作物より雑草のほうが高くのびていた。
人の気配が、まったくない。
鶏の声も、犬の声も、子供の泣き声もない。
ただ、家と家の間を通り抜ける風の音だけが、聞こえる。
私の足音だけが、石畳にひびいていた。
集落の真ん中に、二階建ての建物があった。
看板の文字は、雨と埃で、半分以上が読めない。
それでも、かろうじて「宿場」の二文字だけが残っていた。
窓ガラスは曇り、扉の蝶番には、錆が回っている。
アルテミシアさんが扉を開けた。
鳴った音は、きしみというより、うめき声に近かった。
中は薄暗かった。
正面にカウンター。受付の鈴も置いてある。
でも、人はいなかった。
奥の戸棚には、長いこと動かされていない瓶や帳簿が、埃をかぶって並んでいた。
アルテミシアさんは、受付には向かわなかった。
窓ぎわの、背の高い木の椅子へ、まっすぐ歩いていった。
その椅子には、誰かが座っていた。
椅子のふちから、骨ばった白い手が、肘掛けに置かれているのが見えた。
アルテミシアさんは、椅子の前に回り込んで、片膝をついた。
「ご機嫌は、いかがですか」
私は、耳を疑った。
いまアルテミシアさんの口から出たのは、訛りの一切ない言葉だった。
王都の修道院でなら、聞きそうな響きだった。
私はそっと椅子のそばへ回り込み、座っている人の顔を見た。
そして、小さく声を上げた。
老人だった。
そう見えた。
けれど、見れば見るほど、その顔は、私が知っている「老人」とは違っていた。
修道院の神父様の皺は、深いけれど、整っていた。
笑い皺は目じりに。考えごとの皺は眉間に。口数の少なさを示す皺は、口の両わきに。
その一本一本が、七十年の人生のどこで何を思い、何に笑い、何に耐えたかを、線になって残していた。
目の前の老人の皺は、違った。
顔の表面に、無造作にヒビが入っていた。
横にも、縦にも、ななめにも。
皮膚そのものが、内側から張りを失って、その重さで、勝手に下へ垂れている。
額の真ん中に、本来あるはずのない皺が、横に三本、深く走っていた。
どんな表情を、何度くり返したら、こんな皺ができるのか。
説明のつかない皺だった。
蝿が一匹、老人の頬に止まっていた。
止まったまま、足をこすり合わせ、反対側の頬まで歩いた。
老人は、それを払いのけなかった。
そして、老人の体全体から、ある匂いが立ちのぼっていた。
腐敗の匂いではない。
紙と、土と、その間にあるはずの水分が、すっかり抜け切ったような匂い。
——乾いている。
私は、喉の奥で気づいた。
気づいた瞬間、胃の底が、下から押し上げられた。
吐き気というより、自分の体が、目の前のものから距離を取ろうとする、本能のような反応だった。
私は口元に手を当てた。
当てたその手の、細い指の関節が、視界のすみに入った。
私は思わず、その指の関節を、もう一方の手で、ひと撫でした。
撫でた指の下に、たしかに、温かい、生きた肉があった。
足が、半歩、後ろに下がっていた。
下がってから、下がったことに気づいた。
——腐ってから死ぬのではない。
乾いて死んでいく。
これが、魔力を取られすぎた平民の、孤独な死なのだ。
私は初めて、その違いを、肌で知った。
「シスター」
老人が、目を開けた。
声は、思っていたよりも、はっきりしていた。
眼球だけは、皮膚が崩れても、まだ守られているようだった。
「シスター。いつも、ありがとう。
私はまだ、逝っていないよ」
「はい。存じております」
アルテミシアさんは、両手で老人の手を包んだ。
指先で、その冷たい手の甲を、やさしく撫でる。
「主は、あなたの傍におられます。
たとえ死の陰の谷を歩むとも、その杖と鞭が、あなたを慰めるでしょう」
聖句だった。
私も、文書庫で読んだことのある一節だ。
それをアルテミシアさんは、口の中でよどみなく唱えた。
「ありがとう」
老人の唇が、わずかに動いた。
「あなたの周りの世界も、これから変わります」
アルテミシアさんは、続けた。
「王子が、魔力の取りすぎをおさえる法律を、お作りになりました。
もうすぐ、元通りになります。
もう少しだけ、一緒に頑張りましょう」
老人の目に、ほんの一瞬、光のようなものが宿ったように見えた。
それから、また目を閉じた。
アルテミシアさんは、もう一度、その手を軽く撫でた。
そして、立ち上がった。
——もうすぐ。
私は、その言葉を、舌の上でそっとくり返した。
あれは、期限の言葉じゃなかった。
何日後とも、いつの季節とも、決めていない。
死の床にいる人の、残り少ない時間に、もう一度だけ灯りをともすための、ただそれだけの言葉だ。
それでもアルテミシアさんは、「もうすぐ」と言った。
——ならば、私がその「もうすぐ」を、嘘にしてはいけない。
私の握った拳の中で、爪が皮膚を押した。
二階の奥の部屋は、長いこと掃除がされていなかった。
埃の匂いと、湿った木の匂いが、いっしょに漂っている。
寝台の白い布の上に、灰色の埃が、薄く積もっていた。
窓は、ずっと開けられていなかった。
アルテミシアさんは、扉を閉めた。
鍵はなかった。
代わりに、内側から木の閂を一本、横に渡した。
それから、無造作に窓を押し開けた。
「お前は、もう寝ぃ」
訛りが、戻っていた。
扉が閉じてからしか、戻らなかった。
「さきほどは、お言葉が違いました」
寝台に倒れ込みながら、私はそれだけ口にした。
「気にすな」
私は答えなかった。
倒れ込んだ瞬間、長く動かされていなかった布から、埃が舞い上がった。
咳が出た。
枕に額を当てると、頭が沈むより先に、埃の匂いが鼻の中で立ちのぼった。
肩にかけていた外套を外し、丸めて寝台のはしに置いた。
布の埃を吸わずにすむよう、その上に頭を預け直す。
外套の布の匂いだけが、鼻先に残った。
私は、目を閉じた。
——王の、管轄地。
階下で聞いた言葉が、まぶたの裏で揺れた。
父が、まさか——。
そう考えかけて、体は、それ以上の思考を許してくれなかった。
私は、眠りに落ちた。
目を覚ました。
窓ガラスの向こうに、薄い白い光が走っていた。
夜明けだった。
朝日はまだ、地平線の下にいる。
でも、その手前の空が、もう灰色から、青みのある白に変わっていた。
あの夜明けの色を、私は王城の塔の上から、何度も見ていた。
体は、まだ重かった。
背骨も内ももも、痛みが残っている。
それでも、昨夜倒れ込んだときよりは、息が楽だった。
もう一方の寝台では、アルテミシアさんが、すでに座っていた。
寝台のふちに腰かけ、外套を膝に羽織って、窓の外を見ている。
私は外套を抱えたまま、身を起こした。
寝台のふちに座る。
動くたびに、関節がきしんだ。
「アルテミシアさん」
「ん」
「あの方の——昨日の老人のお話を、もう少しうかがっても」
アルテミシアさんは、窓の外から視線を戻した。
夜明けの光が、その頬のそばかすを、わずかに橙色に染めていた。
「うちと、同じくらいだがね。生まれて、二十一年しか生きとらん」
私は、頷いた。
——二十一歳。
あの乾いた老人が。
「ほかの住人も、ほとんどが家の中におる。
もう、外に出る力がにゃあ。
神父様の名代で、うちが時々こうして回って、生きとるかどうか、確かめとる」
「子供は」
「あの老人たちが、産めると思うんか」
「……いいえ」
「今年中には、人がいなくなる」
私は、しばらく答えられなかった。
それから、やっと口を開いた。
「アルテミシアさん」
「なんよ」
「父が、ここを、本当に把握していたのでしょうか?」
アルテミシアさんは、眉を上げた。
「うちに分かるのは、王のお名前で代官と徴収官が奉仕量を決めとる、ってことだけだて。じゃがな」
少し間を置いて、続けた。
「王ご自身がここまで足を運んで、徴収を命じたわけでにゃあ、と聞いとる」
私の胸の奥で、ある考えが、ゆっくりと組み変わった。
——そうか。
父が、自分の名前で行われている徴収の現場を、すべて目で確かめているはずがない。
父は四十年前から、この国の限界を知っていた。
それでも玉座に座り続けた。
座り続けながら、自分の名前のもとで何が起きているかを、すべて把握できていたとは、限らない。
把握できていなかったのか。
把握しようとしなかったのか。
把握しようとしても、できなかったのか。
私には、まだそれを決める材料がなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
仮に父が「奉仕量の上限」を決めていたとしても、その上限を、現場の代官が守らなかったら——
いったい、誰がそれに気づくのか。
父には、見えていなかった。
あるいは、見えないように、仕組みのほうが組まれていた。
それは——。
私の頭の中で、ある光景が、別の光景に重なった。
半年前。
評議会のために、私が——ロディエットが——自分で組み上げた、ある仕組み。
王立記録院と、王立医学院。
二つの役所に、同じことをべつべつに記録させる。
そして、その二つの数字を、つき合わせる。
片方ではごまかせる不正も、もう片方の数字と合わなければ、すぐに浮かび上がる。
数字どうしが、おたがいを見張る仕組みだ。
カルディオ伯爵が突きつけてきた反論を、まとめて退けたのも、この仕組みだった。
でも、あれは——。
貴族たちの議論の卓の上で、数字を信用させるためのものだった。
——同じ考えを、現場にも、当てはめなければいけない。
半年前に自分の手で組んだ枠組みが、この丘の上の老人の前には、まだ届いていなかった。
ただ、それだけのことだったのだ。
徴収を実行する者。
徴収量を記録する者。
徴収を監督する者。
この三つを、一人の手から切り離す。
三者の名前と数字を、平民の目にも届く場所に、貼り出す。
誰が、いくら、どこから徴収したのか。
それを、隠せない仕組みにする。
しかも、それを王の名ではなく、大法官の名で、はっきりと法律にする。
半年前に、二つの役所でやったこと。
それを今度は、王領のすべての村で、やるのだ。
「お前」
アルテミシアさんの声が聞こえた。
「いま、何を考えとった」
私は、口のはしをゆるめた。
ゆるめたけれど、笑みにはならなかった。
「半年前に、私が組んだはずの仕組みのことです。
あれは、会議の議論を信用させるためのものでした。
同じ仕組みが、徴収の現場には、まだ届いていなかったのです」
アルテミシアさんは、何も答えなかった。
「父が把握できていなかったのなら、把握できる仕組みを作ります。
父を信じるか、信じないか、という話ではありません。
信じても、信じなくても、こうなっていた。
それは、王ひとりの名前に、すべてが集まりすぎていたから、起きたことなのです」
アルテミシアさんは、しばらく私を見ていた。
それから、視線を窓の外に戻した。
夜明けが、やっと地平線の上に昇りはじめていた。
塀の向こう、地平線が、何にもさえぎられずに見えた。
沈む色とは、明らかに違う温度の色だった。
雲が、東のはしで金色に焼けていく。
光が、丘のふもとの畑の上に、降りてきた。
雑草の伸びたうねの上にも、その光は降りた。
煙の上がらない煙突の屋根にも、その光は降りた。
そして、階下の椅子に座る、二十一歳の老人の上にも、いま、その光が届きつつあった。
「もうすぐ」と、アルテミシアさんは昨日、老人に告げた。
その「もうすぐ」を、いま、私が背負う番だった。
「私は」
私は、口を開いた。
「この村を、忘れません」
アルテミシアさんは、何も答えなかった。
「絶対に、この村を立て直してみせます」
私は、夜明けの光を見つめたまま、誓った。
朝日は、丘の村全体を、ゆっくりと橙色に染めていった。




