↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/48

第5話 丘の上の村

 朝が来た。

 でも私は、起き上がれなかった。


 野営した地面で目を覚ました瞬間、肋骨《ろっこつ》の下に、冷たいしびれがあった。

 空腹なわけではない。

 昨日、馬で痛めた背骨と、内ももの痛み。それが一晩眠っただけでは抜けず、鈍い痛みに変わって、体の真ん中に居座っていた。


 アルテミシアさんは、それをちらりと見て、舌打ちをした。

 馬の鞍《くら》にロープを通して、私の腰とももを、馬の体にしばりつけた。


「歩かせるがね」


 その声は、毒を吐く余裕もないくらい、短かった。


「馬はゆっくり進む。お前は、落ちなんだら、それでええんよ」


 馬の歩みは、本当にゆっくりだった。


 それでも、少し進んだだけで、私は声をこらえきれなくなった。


 もれた声は、悲鳴に近かった。

 腰のロープが、すり切れた内ももの皮膚に食い込む。

 皮膚そのものが、もうむけてしまっている気がした。


「お前——」


 アルテミシアさんが、馬を寄せてきた。

 腰のロープを、ほんの少しだけゆるめてくれる。


「うちが誰のために、こうやって付き合わされとると思っとるんよ」


 短く、吐き捨てるように言った。


「我慢しやぁ。今日中には着くて」



 灰色の塀《へい》が丘の上に見えてきたのは、太陽が真上を過ぎたころだった。


 塀は、崩れかけていた。

 あちこち石が抜けて、穴になっている。

 穴のふちから雑草がのびて、外からでも塀の内側がのぞけた。


 門番はいなかった。

 門に近づくと、樫《かし》の木で組んだバリケードが、入口を半分ふさいでいた。


「ここが、今日の休憩場所だがね」


 アルテミシアさんは、馬を止めた。


「本当は、昨日のうちに着いていたかったんだがね」


 私は顔を上げた。

 塀のさらに上に、低い屋根がいくつか見える。


「ここは——」


「王城に近いもんで、王の管轄地《かんかつち》だて」


 アルテミシアさんは、塀をあごでしめした。


「王のお名前で、代官《だいかん》と徴収官《ちょうしゅうかん》が、奉仕量《ほうしりょう》を決めとる。じゃが、王ご自身がこうしてお越しになるわけでもにゃあ」


 奉仕量。

 土地を使う代わりに、平民が差し出させられる魔力の量。

 つまり、命を削る量だ。


 何かを言う気力は、もう残っていなかった。


 アルテミシアさんは馬から降りて、バリケードを片手で押しのけた。

 重そうな木組みのはずなのに、ほとんど手ごたえもなく、横へ動いた。


「勝手に入って、よいのですか」


 私は、やっとそれだけ聞いた。


「ええんよ。もう、誰も相手をしてくれん」



 塀の中は、静かだった。


 石畳《いしだたみ》の道が、ゆるい坂になって、集落の真ん中へのびている。

 両側に家が並んでいた。

 煉瓦《れんが》の壁。木の扉。低い窓。


 でも、どの家の煙突からも、煙は上がっていなかった。

 窓ガラスには、内側から布が垂れている。

 畑のうねには、作物より雑草のほうが高くのびていた。


 人の気配が、まったくない。

 鶏の声も、犬の声も、子供の泣き声もない。

 ただ、家と家の間を通り抜ける風の音だけが、聞こえる。


 私の足音だけが、石畳にひびいていた。



 集落の真ん中に、二階建ての建物があった。


 看板の文字は、雨と埃で、半分以上が読めない。

 それでも、かろうじて「宿場」の二文字だけが残っていた。


 窓ガラスは曇り、扉の蝶番《ちょうつがい》には、錆《さび》が回っている。


 アルテミシアさんが扉を開けた。

 鳴った音は、きしみというより、うめき声に近かった。


 中は薄暗かった。

 正面にカウンター。受付の鈴も置いてある。

 でも、人はいなかった。

 奥の戸棚には、長いこと動かされていない瓶や帳簿が、埃をかぶって並んでいた。


 アルテミシアさんは、受付には向かわなかった。

 窓ぎわの、背の高い木の椅子へ、まっすぐ歩いていった。


 その椅子には、誰かが座っていた。

 椅子のふちから、骨ばった白い手が、肘《ひじ》掛けに置かれているのが見えた。


 アルテミシアさんは、椅子の前に回り込んで、片膝をついた。


「ご機嫌は、いかがですか」


 私は、耳を疑った。


 いまアルテミシアさんの口から出たのは、訛《なま》りの一切ない言葉だった。

 王都の修道院でなら、聞きそうな響きだった。


 私はそっと椅子のそばへ回り込み、座っている人の顔を見た。


 そして、小さく声を上げた。


 老人だった。


 そう見えた。

 けれど、見れば見るほど、その顔は、私が知っている「老人」とは違っていた。


 修道院の神父様の皺《しわ》は、深いけれど、整っていた。

 笑い皺は目じりに。考えごとの皺は眉間《みけん》に。口数の少なさを示す皺は、口の両わきに。

 その一本一本が、七十年の人生のどこで何を思い、何に笑い、何に耐えたかを、線になって残していた。


 目の前の老人の皺は、違った。


 顔の表面に、無造作にヒビが入っていた。

 横にも、縦にも、ななめにも。

 皮膚そのものが、内側から張りを失って、その重さで、勝手に下へ垂れている。

 額の真ん中に、本来あるはずのない皺が、横に三本、深く走っていた。


 どんな表情を、何度くり返したら、こんな皺ができるのか。

 説明のつかない皺だった。


 蝿《はえ》が一匹、老人の頬に止まっていた。

 止まったまま、足をこすり合わせ、反対側の頬まで歩いた。

 老人は、それを払いのけなかった。


 そして、老人の体全体から、ある匂いが立ちのぼっていた。


 腐敗の匂いではない。

 紙と、土と、その間にあるはずの水分が、すっかり抜け切ったような匂い。


 ——乾いている。


 私は、喉の奥で気づいた。

 気づいた瞬間、胃の底が、下から押し上げられた。


 吐き気というより、自分の体が、目の前のものから距離を取ろうとする、本能のような反応だった。


 私は口元に手を当てた。

 当てたその手の、細い指の関節が、視界のすみに入った。


 私は思わず、その指の関節を、もう一方の手で、ひと撫でした。

 撫でた指の下に、たしかに、温かい、生きた肉があった。


 足が、半歩、後ろに下がっていた。

 下がってから、下がったことに気づいた。


 ——腐ってから死ぬのではない。

 乾いて死んでいく。

 これが、魔力を取られすぎた平民の、孤独な死なのだ。


 私は初めて、その違いを、肌で知った。



「シスター」


 老人が、目を開けた。


 声は、思っていたよりも、はっきりしていた。

 眼球だけは、皮膚が崩れても、まだ守られているようだった。


「シスター。いつも、ありがとう。

 私はまだ、逝《い》っていないよ」


「はい。存じております」


 アルテミシアさんは、両手で老人の手を包んだ。

 指先で、その冷たい手の甲を、やさしく撫でる。


「主は、あなたの傍《そば》におられます。

 たとえ死の陰の谷を歩むとも、その杖《つえ》と鞭《むち》が、あなたを慰めるでしょう」


 聖句だった。

 私も、文書庫で読んだことのある一節だ。

 それをアルテミシアさんは、口の中でよどみなく唱えた。


「ありがとう」


 老人の唇が、わずかに動いた。


「あなたの周りの世界も、これから変わります」


 アルテミシアさんは、続けた。


「王子が、魔力の取りすぎをおさえる法律を、お作りになりました。

 もうすぐ、元通りになります。

 もう少しだけ、一緒に頑張りましょう」


 老人の目に、ほんの一瞬、光のようなものが宿ったように見えた。

 それから、また目を閉じた。


 アルテミシアさんは、もう一度、その手を軽く撫でた。

 そして、立ち上がった。



 ——もうすぐ。


 私は、その言葉を、舌の上でそっとくり返した。


 あれは、期限の言葉じゃなかった。

 何日後とも、いつの季節とも、決めていない。


 死の床にいる人の、残り少ない時間に、もう一度だけ灯《あか》りをともすための、ただそれだけの言葉だ。


 それでもアルテミシアさんは、「もうすぐ」と言った。


 ——ならば、私がその「もうすぐ」を、嘘にしてはいけない。


 私の握った拳《こぶし》の中で、爪が皮膚を押した。



 二階の奥の部屋は、長いこと掃除がされていなかった。


 埃の匂いと、湿った木の匂いが、いっしょに漂っている。

 寝台《しんだい》の白い布の上に、灰色の埃が、薄く積もっていた。

 窓は、ずっと開けられていなかった。


 アルテミシアさんは、扉を閉めた。

 鍵はなかった。

 代わりに、内側から木の閂《かんぬき》を一本、横に渡した。

 それから、無造作に窓を押し開けた。


「お前は、もう寝ぃ」


 訛りが、戻っていた。

 扉が閉じてからしか、戻らなかった。


「さきほどは、お言葉が違いました」


 寝台に倒れ込みながら、私はそれだけ口にした。


「気にすな」


 私は答えなかった。


 倒れ込んだ瞬間、長く動かされていなかった布から、埃が舞い上がった。

 咳が出た。

 枕に額を当てると、頭が沈むより先に、埃の匂いが鼻の中で立ちのぼった。


 肩にかけていた外套《がいとう》を外し、丸めて寝台のはしに置いた。

 布の埃を吸わずにすむよう、その上に頭を預け直す。

 外套の布の匂いだけが、鼻先に残った。


 私は、目を閉じた。


 ——王の、管轄地。


 階下で聞いた言葉が、まぶたの裏で揺れた。


 父が、まさか——。


 そう考えかけて、体は、それ以上の思考を許してくれなかった。


 私は、眠りに落ちた。



 目を覚ました。


 窓ガラスの向こうに、薄い白い光が走っていた。


 夜明けだった。

 朝日はまだ、地平線の下にいる。

 でも、その手前の空が、もう灰色から、青みのある白に変わっていた。


 あの夜明けの色を、私は王城の塔の上から、何度も見ていた。


 体は、まだ重かった。

 背骨も内ももも、痛みが残っている。

 それでも、昨夜倒れ込んだときよりは、息が楽だった。


 もう一方の寝台では、アルテミシアさんが、すでに座っていた。

 寝台のふちに腰かけ、外套を膝に羽織って、窓の外を見ている。


 私は外套を抱えたまま、身を起こした。

 寝台のふちに座る。

 動くたびに、関節がきしんだ。


「アルテミシアさん」


「ん」


「あの方の——昨日の老人のお話を、もう少しうかがっても」


 アルテミシアさんは、窓の外から視線を戻した。

 夜明けの光が、その頬のそばかすを、わずかに橙《だいだい》色に染めていた。


「うちと、同じくらいだがね。生まれて、二十一年しか生きとらん」


 私は、頷いた。


 ——二十一歳。

 あの乾いた老人が。


「ほかの住人も、ほとんどが家の中におる。

 もう、外に出る力がにゃあ。

 神父様の名代《みょうだい》で、うちが時々こうして回って、生きとるかどうか、確かめとる」


「子供は」


「あの老人たちが、産めると思うんか」


「……いいえ」


「今年中には、人がいなくなる」


 私は、しばらく答えられなかった。


 それから、やっと口を開いた。


「アルテミシアさん」


「なんよ」


「父が、ここを、本当に把握していたのでしょうか?」


 アルテミシアさんは、眉を上げた。


「うちに分かるのは、王のお名前で代官と徴収官が奉仕量を決めとる、ってことだけだて。じゃがな」


 少し間を置いて、続けた。


「王ご自身がここまで足を運んで、徴収を命じたわけでにゃあ、と聞いとる」


 私の胸の奥で、ある考えが、ゆっくりと組み変わった。


 ——そうか。


 父が、自分の名前で行われている徴収の現場を、すべて目で確かめているはずがない。


 父は四十年前から、この国の限界を知っていた。

 それでも玉座に座り続けた。

 座り続けながら、自分の名前のもとで何が起きているかを、すべて把握できていたとは、限らない。


 把握できていなかったのか。

 把握しようとしなかったのか。

 把握しようとしても、できなかったのか。


 私には、まだそれを決める材料がなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 仮に父が「奉仕量の上限」を決めていたとしても、その上限を、現場の代官が守らなかったら——

 いったい、誰がそれに気づくのか。


 父には、見えていなかった。

 あるいは、見えないように、仕組みのほうが組まれていた。


 それは——。


 私の頭の中で、ある光景が、別の光景に重なった。


 半年前。

 評議会のために、私が——ロディエットが——自分で組み上げた、ある仕組み。


 王立記録院と、王立医学院。

 二つの役所に、同じことをべつべつに記録させる。

 そして、その二つの数字を、つき合わせる。


 片方ではごまかせる不正も、もう片方の数字と合わなければ、すぐに浮かび上がる。

 数字どうしが、おたがいを見張る仕組みだ。


 カルディオ伯爵が突きつけてきた反論を、まとめて退けたのも、この仕組みだった。


 でも、あれは——。


 貴族たちの議論の卓の上で、数字を信用させるためのものだった。


 ——同じ考えを、現場にも、当てはめなければいけない。


 半年前に自分の手で組んだ枠組みが、この丘の上の老人の前には、まだ届いていなかった。

 ただ、それだけのことだったのだ。


 徴収を実行する者。

 徴収量を記録する者。

 徴収を監督する者。


 この三つを、一人の手から切り離す。


 三者の名前と数字を、平民の目にも届く場所に、貼り出す。

 誰が、いくら、どこから徴収したのか。

 それを、隠せない仕組みにする。


 しかも、それを王の名ではなく、大法官の名で、はっきりと法律にする。


 半年前に、二つの役所でやったこと。

 それを今度は、王領のすべての村で、やるのだ。


「お前」


 アルテミシアさんの声が聞こえた。


「いま、何を考えとった」


 私は、口のはしをゆるめた。

 ゆるめたけれど、笑みにはならなかった。


「半年前に、私が組んだはずの仕組みのことです。

 あれは、会議の議論を信用させるためのものでした。

 同じ仕組みが、徴収の現場には、まだ届いていなかったのです」


 アルテミシアさんは、何も答えなかった。


「父が把握できていなかったのなら、把握できる仕組みを作ります。

 父を信じるか、信じないか、という話ではありません。

 信じても、信じなくても、こうなっていた。


 それは、王ひとりの名前に、すべてが集まりすぎていたから、起きたことなのです」


 アルテミシアさんは、しばらく私を見ていた。


 それから、視線を窓の外に戻した。



 夜明けが、やっと地平線の上に昇りはじめていた。


 塀の向こう、地平線が、何にもさえぎられずに見えた。


 沈む色とは、明らかに違う温度の色だった。

 雲が、東のはしで金色に焼けていく。

 光が、丘のふもとの畑の上に、降りてきた。


 雑草の伸びたうねの上にも、その光は降りた。

 煙の上がらない煙突の屋根にも、その光は降りた。

 そして、階下の椅子に座る、二十一歳の老人の上にも、いま、その光が届きつつあった。


 「もうすぐ」と、アルテミシアさんは昨日、老人に告げた。


 その「もうすぐ」を、いま、私が背負う番だった。


「私は」


 私は、口を開いた。


「この村を、忘れません」


 アルテミシアさんは、何も答えなかった。


「絶対に、この村を立て直してみせます」


 私は、夜明けの光を見つめたまま、誓った。


 朝日は、丘の村全体を、ゆっくりと橙色に染めていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。